1665-1689年:1665年から六年戦争までのアルバジンの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 19:42 UTC 版)
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1665年、リムスクのヴォイヴォダ(軍司令官)が、ポーランド人ニキフォール・チェルノゴフスキー(英語版)により殺害された。チェルノゴフスキーはアムール川流域へと逃亡し、アルバジン要塞を再占領した。そしてアルバジンを中心としてヤクサ王国(英語版)を建国した。チェルノゴフスキー(チェルニゴフスキー)らは再び先住民からヤサクを徴収しはじめた。 ヤクサ王国は1670年の清による攻撃を耐え、1672年にはツァーリ・アレクセイの恩赦と公的な承認を受けた。1673年から1683年にかけて、清は、南方での三藩の乱の鎮圧にかかりきりになった。1682年もしくは1684年にチェルノゴフスキーはヴォイヴォダに任命された。
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