1609年のスペイン人の遠征とは? わかりやすく解説

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1609年のスペイン人の遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 11:13 UTC 版)

ガスパール・ヤンガ」の記事における「1609年のスペイン人の遠征」の解説

1609年1月にペドロ・ゴンサレス・デ・エレーラの率いる約550人のスペイン軍プエブラ出発した。うち100人がスペイン正規軍で、残り徴兵あるいは傭兵だった。これに対してマルーン軍は約100人が何らかの火器持ち400人ほどが石・マチェーテ弓矢などで武装していた。マルーン軍はアンゴラ出身のフランシスコ・デ・ラ・マトサが率いていた。 スペイン軍に対してヤンガ捕虜にしたスペイン人を介して和平案を提出したヤンガ案はインディオスペイン人の間の対立解決似たものであり、自治認めかわりにマルーン貢納行いスペイン人攻撃され場合にはその味方をするというものだった。さらにヤンガはこの地域逃げこんだ奴隷返還することも提案した。これは一帯奴隷主の多くの心配を緩和するために必要な譲歩だった。 スペイン側和平案を拒絶して戦闘をはじめ、双方甚大な損害発生したスペイン軍マルーン集落焼き払ったが、マルーン側は周囲の地に逃れたマルーン地勢熟知していたため、スペイン側決定的な勝利をあげることができなかった。何年もの間膠着状態続き最終的にスペイン側協議の座につくことに同意した先のヤンガ提案認められ、それに加えてフランシスコ会聖職者のみが人々仕えヤンガ一族統治権与えられるというただし書き加えられた:7。協定1618年調印された。1630年までにサン・ロレンソ・デ・ロス・ネグロス・デ・セラルボが設立された。この町は今のベラクルス州にあり、1932年ヤンガ (Yanga, Veracruz) と改称された。

※この「1609年のスペイン人の遠征」の解説は、「ガスパール・ヤンガ」の解説の一部です。
「1609年のスペイン人の遠征」を含む「ガスパール・ヤンガ」の記事については、「ガスパール・ヤンガ」の概要を参照ください。

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