高祖本紀とは? わかりやすく解説

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劉邦

(高祖本紀 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 00:48 UTC 版)

劉 邦(りゅう ほう、簡体字中国語: 刘邦拼音: Liú Bāng)は、前漢の初代皇帝


注釈

  1. ^ 史記集解』が引用した皇甫謐によると、秦の昭襄王51年に生まれ、在位12年に62歳で崩じたとされている。しかし、『漢書』高帝記の注釈では53歳で崩じたと伝えている。
  2. ^ 「邦」の語義は、元々「幇」(ピンインは“bāng”、意味は「兄貴」)という意味の一般名詞ではないかと推測されている(司馬遼太郎・佐竹靖彦の説)。ただし現在に伝わる「幇」という字の意味には「兄貴」はない。
  3. ^ 父母の名前も、「太公」はある程度年を取った男性の一般呼称であり、「媼」(姓は不詳)も同じく“おばさん”といった程度の呼称、長兄の伯(伯は字)にしてもこれは長男を指すものに過ぎない。このことから、劉邦一家の本名は不明であり、司馬遷が『史記』を書く際にもわからなかったので、思い切ってこのように簡単な名前を付けたという説もある。また、庶民においては正式な名をつけず、「劉家の長男坊=劉伯」や「劉家の末っ子=劉季」といった通称で足りていたという説もある。ただし、次兄の仲や弟にはそれぞれ「喜」「交」という名が伝わっており、一家全員の本名が不明なわけではない。また避諱のため故意に曖昧に記述したという説もある。なお、劉邦の「邦」の字の避諱のため、漢代は以降「邦」の字が公式に使えなくなり、主に「国」の字が代用された。廷臣の最高職名が「相邦」から「相国」に変わったことなどが例である。これは漢滅亡後も元に戻されなかったし、多くの言葉に現代まで継続する影響を与えた。
  4. ^ 明智憲三郎はこの猜疑からの功臣粛清に対し、自身の死後に重臣の趙高や李斯が実権を握った結果、子の扶蘇・胡亥を殺され秦王朝の滅亡にまで至った始皇帝の末路と比較し、自分の死後に謀反簒奪などの危険行為を起こしかねない家臣を自分が生きている間に処分しておく事で(非情ではあるが)子孫を安全に存続させるための責務を果たしたと評価している。

出典

  1. ^ 史記』巻8 本紀8 高祖本紀
  2. ^ 漢書』巻五 景帝紀第五
  3. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖、沛豐邑中陽里人、姓劉氏、字季。父曰太公、母曰劉媼」
  4. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「其先劉媼嘗息大澤之陂、夢與神遇。是時雷電晦冥、太公往視、則見蛟龍於其上」
  5. ^ 『史記』巻95 列伝35 樊噲伝「舞陽侯樊噲者、沛人也。以屠狗為事、與高祖俱隱」
  6. ^ 『史記』巻93 列伝33 盧綰伝「盧綰者、豐人也、與高祖同里」
  7. ^ 『史記』巻93 列伝33 盧綰伝「盧綰親與高祖太上皇相愛、及生男、高祖・盧綰同日生、里中持羊酒賀兩家」
  8. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「仁而愛人、喜施、意豁如也。常有大度、不事家人生産作業」
  9. ^ 『史記』巻89 列伝29 張耳伝「張耳者、大梁人也。其少時、及魏公子毋忌為客。張耳嘗亡命遊外黄……秦之滅大梁也、張耳家外黄。高祖為布衣時、嘗數從張耳遊、客數月」
  10. ^ 『史記』巻77 列伝17 魏公子伝「高祖始微少時、數聞公子賢。及即天子位、毎過大梁、常祠公子」
  11. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖毎酤留飲、酒讎數倍。及見怪、歳竟、此兩家常折券棄責」
  12. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖常繇咸陽、縱觀、觀秦皇帝、喟然太息曰:「嗟乎、大丈夫當如此也!」」
  13. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「單父人呂公善沛令、避仇從之客、因家沛焉」
  14. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「蕭何為主吏、主進、令諸大夫曰:「進不滿千錢、坐之堂下。」高祖為亭長、素易諸吏、乃紿為謁曰「賀錢萬」、實不持一錢」
  15. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「臣少好相人、相人多矣、無如季相、願季自愛。臣有息女、願為季箕帚妾」
  16. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「呂后與兩子居田中耨……」
  17. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛令恐……乃令樊噲召劉季」
  18. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛令後悔、恐其有變、乃閉城城守、欲誅蕭・曹。蕭・曹恐、踰城保劉季」
  19. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「劉季乃書帛射城上……欲以為沛令」
  20. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「劉季曰……盡讓劉季」
  21. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「周巿使人謂雍齒曰……即反為魏守豐」
  22. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公怨雍齒與豐子弟叛之……欲請兵以攻豐」
  23. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「東陽甯君・沛公引兵西……還軍豐」
  24. ^ 『史記』巻55 世家25 留侯世家「景駒自立為楚假王、在留。良欲往從之、道還沛公」
  25. ^ 『史記』巻55 世家25 留侯世家「良數以太公兵法説沛公、沛公善之、常用其策。良為他人者、皆不省。良曰:「沛公殆天授。」故遂從之、不去見景駒」
  26. ^ 『史記』巻7 本紀7 項羽本紀「項梁乃引兵入薛……此時沛公亦起沛、往焉」
  27. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「項梁益沛公卒五千人、五大夫將十人。沛公還、引兵攻豐」
  28. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公與項羽方攻陳留、聞項梁死、引兵與呂將軍俱東。呂臣軍彭城東、項羽軍彭城西、沛公軍碭」
  29. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「趙數請救、懷王乃以宋義為上將軍、項羽為次將、范增為末將、北救趙。令沛公西略地入關。與諸將約、先入定關中者王之」
  30. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公引兵西……西過高陽」
  31. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「酈食其曰……延上坐」
  32. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「食其説沛公襲陳留……因張良遂略韓地轘轅」
  33. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「戰雒陽東、軍不利、還至陽城……更旗幟、黎明、圍宛城三匝」
  34. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「其舎人陳恢曰……引兵西、無不下者」
  35. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「是時章邯已以軍降項羽於趙矣……降章邯、諸侯皆附」
  36. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「及趙高已殺二世、使人來、欲約分王關中」
  37. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公以為詐、乃用張良計、使酈生・陸賈往説秦將、啗以利、因襲攻武關、破之」
  38. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「又與秦軍戰於藍田南……乗勝、遂破之」
  39. ^ 『史記』巻55 世家25 留侯列伝「沛公欲以兵二萬人撃秦嶢下軍……遂北至藍田、再戰、秦兵竟敗」
  40. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「漢元年十月、沛公兵遂先諸侯至霸上」
  41. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「秦王子嬰素車白馬、繋頸以組、封皇帝璽符節、降軹道旁」
  42. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公曰……乃以秦王屬吏、遂西入咸陽」
  43. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「欲止宮休舎、樊噲・張良諫、乃封秦重寶財物府庫、還軍霸上」
  44. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公曰……秦人大喜、爭持牛羊酒食獻饗軍士」
  45. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「或説沛公曰……沛公然其計、從之。十一月中、項羽果率諸侯兵西、欲入關、關門閉」
  46. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「聞沛公已定關中、大怒、使黥布等攻破函谷關。十二月中、遂至戲」
  47. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公左司馬曹無傷聞項王怒、欲攻沛公、使人言項羽曰……欲以求封」
  48. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖為亭長、乃以竹皮為冠、令求盗之薛治之、時時冠之、及貴常冠、所謂「劉氏冠」乃是也」
  49. ^ 檀上 2020b, p. 82.
  50. ^ 『晋書』巻105「石勒載記下」
  51. ^ 直木孝次郎「持統天皇と呂太后」217-128頁。亀井輝一郎「近江遷都と壬申の乱」6-11頁。加藤洋子「天武天皇の出自と神格化について」21-23頁。





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