顕性院とは? わかりやすく解説

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顕性院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/25 07:58 UTC 版)

顕性院(けんしょういん、慶長9年(1604年) - 寛永12年6月11日1635年7月24日))は、江戸時代初期の女性。真田信繁の五女で、出羽亀田藩第2代藩主岩城宣隆側室、のちに継室。名は、[1][2]なほ[3]、あるいは(でん)[1][4][2]御田姫(おでんひめ)[3]御田の方(おでんのかた)[5]とも呼ばれる。顕性院は院号


注釈

  1. ^ 詳しくは、真田信繁#系譜を参照。
  2. ^ 宣隆(宣家)の初めの正室・珪台院(多賀谷重経の娘)は、この際に離縁となったと思われるが、多賀谷氏が改易されたこともあって実家方に帰されず、宣隆らとともに亀田に移り、顕性院より長く生きて慶安2年(1649年)に亀田で没している。

出典

  1. ^ a b 『日本女性人名辞典』[普及版]p422「顕性院」
  2. ^ a b 吉田昭治 2008, p.126
  3. ^ a b c 小林計一郎 1989, p.96
  4. ^ a b 講談社『日本人名大辞典』『顕性院』 - コトバンク
  5. ^ 秋田の本っこ 編「秋田と戦国武将」『あきたの本っこ 「あべ」号 Lite版』(Kindle)Amazon、2015年。 ASIN B014JTXDD8


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