陳徳止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/01 13:55 UTC 版)
陳 徳止(ちん とくし、朝鮮語: 진덕지、生没年不詳)は、中国から百済に移住していた中国系百済人の貴族、将軍[1]。官職は、「達率」[2]。「麻連大郡将」を任官する。中国で出土した孫の陳法子の墓誌によって陳氏一族の出自と活動が詳らかになった[2]。陳徳止の先祖は、2世紀末の黄巾の乱を避けて中国から朝鮮に移住した中国系移民であり、熊津で暮らしていたが、漢城百済の崩壊後の百済の熊津遷都後に一族が頭角をあらわし、主に百済政府の外交と教育で活躍した。陳徳止の生年は、孫の陳法子(615年 - 680年)より二世代前であるため、555年から575年の間と推測される。関連して、陳徳止が「達率」の高位に上り詰めたのは40歳前後とみられるため、陳徳止が「麻連大郡将」に任命された時期は、595年から615年の間と推定できる[2]。580年代に「麻連大郡将」に任命されたとする見解もあるが、陳氏一族の政治的立場を考慮すると任命時期が早すぎる[2]。
- ^ 김영관 (2014年). “百濟 遺民 陳法子 墓誌銘 硏究”. PAEKCHE - MOONHWA vol.1, no.50 (공주대학교 백제문화연구소). オリジナルの2018年6月13日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c d e f 정동준. “진법자 묘지명 (陳法子 墓誌銘)”. 国史編纂委員会. オリジナルの2022年8月28日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c 조범환 (2015年4月). “중국인 유이민의 백제 귀화와 정착 과정에 대한 검토-「陳法子墓誌銘」을 중심으로-”. 한국고대사탐구 vol., no.19 (한국고대사탐구학회). doi:10.35160/sjekh.2015.04.19.7
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