長坂昌国
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長坂 昌国(ながさか まさくに、生没年未詳)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。源五郎。左衛門尉。筑後守。
- ^ 「飯富兵部少輔所行を以て、信玄・義信の間相妨たぐべき陰謀露見候条、生害を加えられ候。父子間の事は、元来別条無く候。心易かるべく候」(『尊経閣古文書纂』 十月二十三日付)
- ^ 平山優氏「切腹だったのか、病死だったのか、これまで二説に分かれていましたが、このほど大河ドラマ『真田丸』でも時代考証を担当されていた黒田基樹氏により新史料が発掘されまして病死だという事が明らかになりました」 NHK大河ドラマ「どうする家康」コラム 大河と歴史の裏話『文化人としての 武田信玄・今川義元を描く』2023年6月25日
- ^ 『「時代を駆け抜けた戦国武将たち~武田信玄の新研究・義信事件を考える」講師は、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当された駿河台大学教授の黒田基樹先生。重要史料によれば、義信は病死であった。これにより事件の背景や事件への信玄の処置についての理解は、大きく考え直さなければならない。事件について新たな見解を提示し、真実に迫る。』武田信玄の新研究【NHKカルチャーオンデマンド講座】2022年4月22日https://b2b-ch.infomart.co.jp/news/detail.page?IMNEWS4=3226989
- ^ 義信事件に関する考察は平山優「武田勝頼の再評価」『新府城と武田勝頼』(山梨県韮崎市教育委員会、2001年)。
なお、首謀者の虎昌の没年月日については高野山成慶院「甲斐国供養帳」の記載から永禄8年8月15日であることが確認されている(丸島和洋「高野山成慶院『甲斐国供養帳』-『過去帳(甲州月牌帳)』」『武田氏研究』34号、2006年)
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