重盛との格差
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:37 UTC 版)
平治の乱の後、清盛は平氏一門で初めての公卿となる。平氏の勢力は他より抜きん出たものとなったが、乱で共に活躍した頼盛と重盛は、官位において大きく明暗を分けることになる。永暦元年(1160年)に重盛が従四位上・内蔵頭となったのに対して、頼盛の官位はそのまま据え置かれた。応保元年(1161年)に頼盛は正四位下となり位階では上回るが、重盛も応保2年(1162年)に正四位下、長寛元年(1163年)には従三位、長寛2年(1164年)には正三位と瞬く間に引き離し、永万元年(1165年)には28歳で早くも参議となった。 頼盛は33歳で正四位下・修理大夫に過ぎず、一門における地位の低下は明らかであった。長寛2年(1164年)、清盛が装飾経33巻(『平家納経』)を厳島神社に奉納した際は、重盛・経盛・教盛らとともに書写に携わった。『平家納経』の中の「提婆品」は頼盛の直筆とされる。
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