酷政を改める
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)
同月、呂光は群臣と共に酒宴を催した。宴も酣になると、政事について語り合うようになっていた。当時の刑法は峻厳であったので、参軍段業は進み出て「厳刑・重憲は明王の義とはいえません」と述べた。これに呂光は「商鞅の法は至峻であったが、諸侯を統べていた。呉起の術は無親であったが、荊蛮に覇をもって治めた。どうしてか」と反論した。これに段業は「呉起がその身を喪い、商鞅がその家を亡ぼしたのは、いずれもその残酷さが招いたのです。結果でしょう。明公は天眷の命を受け、大業を開建して四海に君臨しようとしています。堯・舜の業績を公明正大に行ったとしても、なおその弊を憂慮せねばならぬというのに、呉起・商鞅の治を慕うなど、どうしてこの州の士女が望みましょうか!」と反論した。呂光は様子を改めて段業へ謝辞を述べ、自らを責める令を下すと、同時に寛簡の政を尊ぶ事とした。
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