逮捕と見せしめ裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 22:31 UTC 版)
朝鮮戦争休戦後の1953年3月、朴憲永以下南労党派はクーデター容疑および「アメリカ帝国主義のスパイ」「反党分裂分子」などの容疑で一斉に逮捕され、同年8月には大々的な見せしめ裁判が展開された。ただし、李承燁・李康国・林和・裵哲ら南労党派の有力者が問われたのはクーデター未遂容疑ではなかった。彼らは、「米帝のスパイ」「政権転覆・南労党派のクーデター陰謀」「戦時50万蜂起流言飛語」という名分のもと、朝鮮戦争を失敗に導いたことを罪状として処刑された。朝鮮戦争は、金日成が仕掛けた戦争であったが、それによって得たものは何もなく、分断はいっそう堅固になった。当時の北朝鮮社会には、金日成をはじめとする指導部に対する怨嗟の念が満ちており、こうした批判を金日成はでっち上げ裁判で切り抜けようとしたのである。このとき、延安派(延安で中国共産党員として活動した朝鮮人たち)の有力者で、名高い軍人であった武亭も戦争の失敗の責任をとらされて追放された。逮捕された朴憲永は、党から除名され、職種も解任され、平安北道の鉄山郡にある政治犯収容所に収容されて拷問を受けた。
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