軍事および政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 06:05 UTC 版)
嵐作戦の直後の頃、クロアチア軍とクロアチア内務省(MUP)の部隊はクライナで一連の追加作戦を指揮した。クライナに展開したクロアチア軍の大部分は1995年8月のうちにこの地を去った。クロアチアとボスニアの両国の軍はその後ボスニア西部へ攻勢を続け、ボスニアのセルビア人勢力(スルプスカ共和国)の事実上の首都であるバニャ・ルカへと迫った。 嵐作戦は、1992年からセルビア人勢力の包囲下に置かれていたビハチの包囲を解いた。ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍第5軍団の将軍アティフ・ドゥダコヴィッチ(Atif Dudaković)は、嵐作戦がフラニョ・トゥジマンとボスニア大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチとの間で交わされ、ビハチの包囲を解くことを誓約したスプリト合意に基づくものであったと話した。 セルビア共和国大統領スロボダン・ミロシェヴィッチも、セルビア人主導のユーゴスラビア連邦軍も、嵐作戦の間クライナの支援には動かなかった。ミロシェヴィッチはクロアチアの軍事攻撃を非難したものの、セルビア政府の支配下にあるメディアはクライナ・セルビア人共和国の指導部をも非難し、彼らは指導者にふさわしくない者たちであったとした。 嵐作戦によって、地域の軍事バランスは一転した。NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナでの空爆作戦とともに、嵐作戦とその後に続くボスニア・ヘルツェゴビナでの軍事攻勢は、和平交渉を続ける上で致命的に重要なものであったと考えられている。その結果によって、デイトン合意が結ばるに至った。 大規模に宣伝されたこの出来事の中で、クロアチアの勝利と統一の象徴として、クロアチア政府はザグレブからクニンを結ぶ「自由の列車」を運行した。クロアチア紛争が始まってから、稲妻作戦および嵐作戦が実施されるまでの間、クロアチアの領土は2つに分断され、両者の間の連絡は皆無に等しかった。 2005年、クロアチアの大統領イーヴォ・サナデルは、「嵐作戦は、我々が誇るべき輝かしい歴史的な軍事・警察作戦であり、占領下に置かれたクロアチア中部を解放した作戦である」とした。さらにサナデルは、主権国家が占領された場合、その領土を解放する権利があるとした。
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