越訴の実行を決める
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
宝暦5年(1755年)11月半ばに江戸から戻った剣村藤次郎は、関寄合所、それから郡上領内に戻って江戸の実情を伝えた。藤次郎から宝暦5年8月13日(1755年9月18日)に江戸に向かった農民代表らが郡上藩側に拘束されたと見られ、また藩主の弟、井上遠江守の邸に訴状を提出した剣村藤次郎、栃洞村清兵衛も藩側から追われる身となったことが伝えられ、一揆勢に参加する農民たちは憤激した。折りしも郡上領内では藩側の弾圧が激しさを増し、一揆から脱落する農民が相次いでいた。一揆勢は窮地に追い込まれている状況を打破するために、郡上藩ではなく幕府に直接裁きを受ける越訴を行うことを決定した。 関寄合所では越訴を実行する願主を選ぶこととし、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、那比村藤吉の5名が願主に選ばれ、うち東気良村善右衛門、切立村喜四郎の両名が本願主となった。宝暦5年(1755年)11月半ば過ぎ、5名の願主に55ヵ村から選ばれた73名が付き添い、江戸へ向かった。一行は江戸に到着すると神田橋本町の秩父屋半七宅に宿所を定め、井上遠江守への追訴の際にも訴状作成に協力した公事師島村良仙の協力を仰ぎ、訴状を作成するなど幕府への追訴の準備を進めた。
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