読売本体へ合流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 20:51 UTC 版)
読売名誉会長の務臺光雄は、「中部進出は私の生涯で唯一の失敗だった」と竹井博友ら中部読売経営陣に退陣を求めた。その後経営不振から1988年2月1日に読売新聞本社と吸収する形で、プロ野球球団読売ジャイアンツ(以下、巨人)を経営する読売興業(のちの株式会社よみうり)に運営を委ね中部読売新聞本社(ちゅうぶよみうりしんぶんほんしゃ)となった。巨人の黒字で中日ドラゴンズ(親会社は中日新聞社)の地元・名古屋で新聞を発行するという形態となった。 同年6月1日には、「読売新聞中部本社」(よみうりしんぶんちゅうぶほんしゃ)となり、題号も『中部讀賣新聞』から、他の本社と同じ『讀賣新聞』として再スタートを切った。読売本紙の社説と、1面下段コラムの「編集手帳」も中部本社発足の日から掲載されるようになった。中部本社は編集と販売のみの業務で、中部本社版の紙面の制作は読売新聞社(東京・大手町。グループ再編後は東京本社)が一括して行うようになった。また、これと同時に、中部読売が発売されていた三重県の伊賀地方(伊賀市・名張市)は、大阪本社の管轄に変更された。伊賀地域は京阪神通勤圏に近く、近畿地方のニュースを多く利用していることや他の全国紙もこの地域は大阪本社管轄であることを配慮した。なお、他紙が大阪版管轄の熊野市・南牟婁郡向けには読売のみ従前どおり中部版を発行した。ただし南牟婁郡紀宝町の一部では中部支社版と大阪本社版(和歌山県版)が併売されている。
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