訴追派貴族のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 09:57 UTC 版)
リチャード2世はこの件で訴追派貴族を恨み、復讐の機会を伺うようになった。そして1397年7月にグロスター公、アランデル伯、ウォリック伯の3名をクーデター的に逮捕し、同年9月の議会で裁判にかけた。グロスター公は議会に連行される前にカレーで暗殺されたが、アランデル伯とウォリック伯の2人は裁判にかけられ、「1386年から1388年の行動」を大逆罪と断じられ、アランデル伯は処刑、ウォリック伯は終身刑となった。 この裁判では訴追派貴族のうちヘレフォード公(ダービー伯)ヘンリー・ボリングブルックとノーフォーク公(モウブレー男爵)トマス・モウブレーの2人が処分を免れていた。国王は議会を通じて「50人を除く」大赦令を出したが、この大赦されない50人が誰なのか明言しなかった。当時の貴族や高官のほとんどは権力者だった訴追派貴族と何らかの形で関係を持っていたから瞬く間に処罰への恐怖が広がった。ボリングブルックとノーフォーク公も処罰に恐怖してラドコット・ブリッジでの反乱行動について、互いに自分に都合のいい話をして相手のせいと非難し合い、ついには決闘することになった。しかしリチャード2世は決闘を禁止し、2人とも国外追放処分とした。ボリングブルックは10年(後に6年に減刑)、ノーフォーク公は永久追放だった。 1399年2月3日にランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが死去した時、国外追放中の息子のボリングブルックはイングランドに呼び戻されて父の遺領を継げると期待していた。しかしリチャード2世は彼に永久追放命令を出すとともにランカスター公家の遺領を没収すると宣言した。激怒したボリングブルックは7月にもイングランドに上陸してクーデターを起こし、8月にはリチャード2世を王位から追い払ってヘンリー4世として即位し、ランカスター朝を開いた。
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