衰退する王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/03 14:45 UTC 版)
「ヴィジャヤナガル王国」の記事における「衰退する王国」の解説
ラーマ・ラーヤの弟ティルマラ・デーヴァ・ラーヤは、サダーシヴァ・ラーヤを擁してヴィジャヤナガルの南東100数十kmのペヌコンダを首都として統治を続け、1569年にはサダーシヴァ・ラーヤを廃位して、アーラヴィードゥ朝(英語版)を開いた。 ティルマラ・デーヴァ・ラーヤは王国を3つの領域に分けた。そして、3人の息子をペヌコンダ、シュリーランガパッタナ、チャンドラギリにそれぞれ配し、アーンドラ地方、カルナータカ地方、タミル地方の統治に当たらせ、ヴィジャヤナガル王国の領土を維持した。 だが、息子で次の王シュリーランガ1世の治世に、タミル地方のシェンジ(ジンジー)、タンジャーヴール、マドゥライの有力ナーヤカは、王国内おいて半独立の政権を打ち出した。これらのナーヤカ政権は、「ナーヤカ領国」あるいは「ナーヤカ朝」とよばれ、ヴィジャヤナガル王国の衰退要因の一つとなった。 トゥルヴァ朝時代に積極的に行われてきたナーヤカの任地替えも、アーラヴィードゥ朝になってほとんど行われていない。おそらく、ムスリム5王国の侵入などの混乱によって、ヴィジャヤナガル王国ではナーヤカの任地替えがおろそかになり、ナーヤカたちが在地勢力として力を持ち、もはや無理になったのであろうと考えられる。 また、シュリーランガ1世の治世、ヴィジャヤナガル王国の衰退に乗じて、ビジャープル王国やゴールコンダ王国の圧迫が一段と強まり、1576年には首都ペヌコンダがビジャープル王国の軍に一時包囲された。
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