若松幸禧
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若松 幸禧(わかまつ ゆきよし、1911年(明治44年)- 1944年(昭和19年)12月18日)は、大日本帝国陸軍の軍人。戦闘機操縦者。最終階級は中佐。鹿児島県薩摩郡高江村(現在の薩摩川内市)出身[3]。通り名・異名は「赤鼻のエース」。
- ^ “ひらりと肩透し敵機鉢合わせ 壮観・大編隊の遭遇戦 国境停戦一周年荒鷲思出座談会”. 東京朝日新聞. (1940年9月17日) 2016年1月10日閲覧。
- ^ “撃墜敵機末期の黒煙 幾十百筋、曠野にゆらぐ壮観 ノムハンの空中戦荒鷲・思出の座談会”. 大阪朝日新聞. (1940年9月17日) 2016年1月10日閲覧。
- ^ a b 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 1024.
- ^ 第3中隊長中村守男大尉との雑談にて
- ^ 第85戦隊が最新鋭の「疾風」に機種改編しだした1944年9月末以降、米軍側に再び被害がではじめ、日本側はいったん劣勢を挽回し均衡状態に回復したと伝えられる。しかしP-51の集中配備は続き、1944年晩秋までには、この方面の日本側戦闘機50機(うちP-51 B/C に対抗可能な「疾風」10数機)に対し連合軍側戦闘機400機(最新鋭P-51 B/C型約300機)で次第に数的に圧倒される状態になったと伝えられる。
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