結婚、家庭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 23:56 UTC 版)
「ヘンリー・リー (3世)」の記事における「結婚、家庭」の解説
1782年4月8日から13日、ストラットフォード・ホールで、リーは又従妹で「神聖なるマチルダ」と言われていたマチルダ・ルドウェル・リー(1766年 - 1790年)と結婚した。マチルダはフィリップ・ルドウェル・リー・シニア(1727年 - 1775年)とエリザベス・ステップトー(1743年 - 1789年)夫妻の娘であった。マチルダの母は後にフィリップ・リチャード・フェンドール1世(1734年 - 1805年)と再婚した。このフェンドール1世は結果的に3度結婚したが、相手はすべてリー一族であった。この結果、フェンドール1世はリーの従兄弟であり、義兄弟であり、同時に義父ということになった。フェンドール1世はリー家から購入したアレクサンドリアの土地にリー・フェンドール・ハウスを建設した。マチルダは3人の子を産み、1790年に死んだ。 1793年6月13日、リーはシャーリー・プランテーションで17歳年下のアン・ヒル・カーター(英語版)と結婚した。2人の間には6人の子が生まれた。その5番目の子ロバート・エドワード・リーが後に南北戦争の南軍将軍として勇名を上げた。妻のアンはシャーリーの裕福なチャールズ・カーターとアン・バトラー・ムーア夫妻の娘であり、バージニア植民地知事アレクサンダー・スポッツウッドやロバート・カーター1世の子孫であり、さらに遡れば、トマス・モアやクローフォード第2代伯爵を通じてスコットランド王ロバート2世に辿り着いた。 リーは、アーロン・バーとの共同経営を含め、かなり投機的な事業に手を出し、行き詰まってしまった。アメリカ合衆国建国の父達の間では、財政的投機は希ではないことであったが、リーのやり方は全く的が外れており、家族にまで苦しい思いをさせた。1810年、債権者の要求に応えるために、また債務者刑務所から出所するために、リーはすべての財産を処分することになった。
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