第1回の模様
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第1回が行われるにあたり、JRA調教師の藤沢和雄から「何かの力になれるなら」と副賞の記念品が提供されるなど、洋一を知る競馬関係者からの働きかけが積極的に行われた。さらに第1回を実施することが公式に発表された際、高知競馬場には洋一の活躍を目にしていた世代にあたる50代・60代のファンから問い合わせが相次いだ。第1回は平日の開催で、天候は小雨だったが、2010年当時では最多となる1263人が来場し、関心の高さを表した。当日の高知競馬場内では洋一をもてなす趣向として、高知競馬の実況アナウンサー・橋口浩二の提案により、洋一が好んだというペギー葉山の「南国土佐を後にして」が流された。 レース終了後の表彰式では福永洋一本人がプレゼンターとして車いすで高知競馬場を訪れ、前述の落馬事故でファンの前から姿を消した1979年以来、31年ぶりに公の場へ姿を見せた。洋一を乗せた車いすが表彰台に登場すると、ファンからは「おかえり」「待ってたぞ」などの声援が飛び、大きな拍手であたたかく迎えられた。待っていたファンに対し洋一は「オーイ」と呼び掛け、ファンへ応えてみせる一幕もあった。 第1回福永洋一記念の優勝騎手赤岡修次は、奇しくも洋一と同じ高知市立潮江中学校の卒業生という縁もあり、レース前にそのことを伝え聞いた赤岡は優勝騎手インタビューで「今日は久々にプレッシャーを感じました。『このレースは、なんとしても獲らないと』という想いでいっぱいだった」と語った。表彰式の終わりに、祐一はファンへ向け「父の名前を冠したレースを、父と最も縁の深い高知競馬でできたっていうことが、なにより嬉しいです。父も久々に高知に来ることができて喜んでいますし、さっき表彰台に向かっているときに、たくさんの方々が拍手で迎えてくださったんで、よかったなと思いました」と語っていた。 第1回の開催を終えたのち、祐一は「親父が引退して30年近くなるのに、たくさんの人が父のことを覚えてくれているのがうれしかった」と感謝し、続けて「父を誇らしく思いました。自分は豊さん(武豊)にあこがれて騎手になったつもりだったが、『俺の中のヒーローは親父だったんだ』と初めて思った」と語り、騎手としてのルーツや父の偉大さを再確認した。さらに祐一は「父が健康であり続ける限り、レースが続く限り一緒に来たい」と続け、次なる開催へ意欲を高めた。
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