第二次政党制出現の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 09:57 UTC 版)
「第二政党制 (アメリカ合衆国)」の記事における「第二次政党制出現の原因」の解説
1824年アメリカ合衆国大統領選挙は現在のような明確な二大政党制を欠いた状態で争われ、4人の候補者の戦いとなった。各候補者、ヘンリー・クレイ、ウィリアム・クロウフォード、アンドリュー・ジャクソンおよびジョン・クインシー・アダムズは、全てが民主共和党員であり、幾つかの州における派閥を含め地域的な支持基盤があった。選挙人投票では過半数を獲得した候補者が居らず、決着はアメリカ合衆国下院での投票に持ち込まれた。一般選挙の投票結果でまずヘンリー・クレイが脱落し、残り3人での決戦となった時点で、下院議長も務めていたヘンリー・クレイは交渉での決着を図った。アンドリュー・ジャクソンは一般投票でも選挙人投票でも最多数を獲得していたが、当選できなかった。第二代大統領ジョン・アダムズの息子、ジョン・クインシー・アダムズが当選し、即座にクレイを国務長官に選出した。 ジャクソンは、国内の対インディアン戦争で最も有名であり、米英戦争の英雄でもあった。ジャクソンはアダムズとクレイの「闇取引」を声高に非難した。地方の民兵隊や州の政治派閥に活発に働きかけて訴え、民主党という連衡組織をまとめ、1828年の選挙ではアダムズを破った。ニューヨーク州政界の著名指導者であるマーティン・ヴァン・ビューレンがジャクソンの重要な助っ人となり、大型州のバージニア州やペンシルベニア州と共に選挙人票をもたらした。その報酬は国務長官への指名であり、さらに後にはジャクソン政権の後継者として副大統領候補への指名と当選だった。民主共和党のアダムズとクレイの派閥は国民共和党と呼ばれるようになったが、アダムズが党に対する忠実な党員と自らを考えることは無かった。
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