第二次マイソール戦争と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 06:15 UTC 版)
「ハイダル・アリー」の記事における「第二次マイソール戦争と死」の解説
1779年、イギリスがフランスからケーララ地方の都市マーヒを奪うと、軍事的にも重要だったこの地が奪われたことで、南インドにおけるイギリスの脅威が増し、マイソール王国との対立が再燃した。 一方、第一次マラーター戦争は依然といて続いており、ラグナート・ラーオとの戦いで不利になったナーナー・ファドナヴィースは、1780年2月7日にマイソールのハイダル・アリーと反英で同盟するところとなった。 ハイダル・アリーはマラーター王国、ニザーム王国と同盟し、1780年5月28日にイギリスの領土に攻め入り(第二次マイソール戦争)、8月にマドラスを包囲し、11月3日にはアルコットを占領した。 1781年7月1日、ハイダル・アリー率いるマイソール軍はポルト・ノヴォで、アイル・クートが率いるイギリス軍に敗北したが(ポルト・ノヴォの戦い)、彼はその軍事的才能によって戦況を覆すことに成功した。 だが、1782年5月、ナーナー・ファドナヴィースはイギリスとの講和条約サールバイ条約の締結を承認し、第一次マラーター戦争を終わらせた。これはマイソール王国との盟約を破ることであったが、ハイダル・アリーは第二次マイソール戦争を続行した。 そうしたなか、同年12月7日 、ハイダル・アリーは第二次マイソール戦争中にアーンドラ地方、チットゥール付近ナラシンガラーヤンペートの陣営で死亡した。60歳前半ぐらいだったという。ここに、戦いに生き続けたハイダル・アリーの生涯は幕を閉じた。
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