立法院議員時代
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1956年、第3回立法院議員選挙に民主同盟の推薦を受け立候補するが、落選となる。1960年、第5回立法院議員選挙で初当選する、沖縄自由民主党の党組織委員長に就任する。1962年、立法院議員に再選。1965年、立法院議員に3選。 1966年10月7日、アメリカ上院は、アメリカ政府が沖縄に講話前補償として2,104万ドルを支払う法案を可決した。 講話前補償支払い成立を受けて、土地連会長を辞任。1968年、立法院議員に4選を果たし、本土復帰を迎えた。
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立法院議員時代
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その後、一貫して教育畑を歩んできたことから、沖縄民政府の文教部視学官に任命された。1950年に沖縄民政府が廃止されると、沖縄群島政府の工務部海運課長に任じられた。 1950年9月の沖縄群島議会議員選挙に立候補する。第4区定員2に対して3位となり落選する。同年、沖縄社会大衆党(以後、「社大党」と表記)の結党に参加する。1954年3月に、第2回立法院議員総選挙へ立候補し、当選を果たす。1956年3月の第3回立法院議員総選挙で再選。しかし、1958年3月、第4回立法院議員総選挙で、折からの民主主義擁護連絡協議会(以後、「民連」と表記)への追い風(民連ブーム)により、平田嗣裕に破れ、落選となった。
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