移動と追跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 13:45 UTC 版)
栃木町での出来事を知った鍋山村の本部では、軍議の結果、唐沢山城跡から小野寺村(現栃木市岩舟町小野寺)にかけての山地に移動して引きこもることにした。小野寺にはかつて小野寺城があって要害の地であると判断したためであり、また太平山や岩船山を支城として連衡させる狙いがあった。そこで、川田太郎を隊長とする玉砕部隊10余名を「決死隊」として出流山へ向かわせ、本隊は葛生へ進んだ。 一方、渋谷率いる幕府や諸藩の軍では、浪士隊との白兵戦を避けるよう全軍に指示し、鉄砲の使用が肝要である旨を伝えた。また間者を放って浪士たちの動きを把握していて、挙兵参加者たちに薩摩訛りがなく、もっぱら関東人であることも判明した。次いで浪士隊の人足として紛れていた間諜の報告により、行き先の見当がおおよそ付いたので、隊をいくつかに分け、12月12日に以下の作戦を実行した。 馬場俊蔵と渡辺慎次郎が率いる隊は、出流山の南西の佐野(現佐野市)から同じく北東の鹿沼(現鹿沼市)にかけてを警戒。 望月善一郎の隊は、出流山の北の粟野(後の上都賀郡粟野町、現鹿沼市)と東の永野方面を警戒。 副将の木村喜蔵と宮内左右平が率いる本隊は、仙波村(現佐野市常盤地区仙波町)から羽鶴峠(現栃木県道202号仙波鍋山線、三峰山付近)を経て出流山を急襲、決死隊を全滅させ、そのまま竹内らを追跡。 主将の渋谷和四郎が指揮する隊は、栃木町から新里村(現栃木市岩舟町新里)に先回りして兵を伏せる。
※この「移動と追跡」の解説は、「出流山事件」の解説の一部です。
「移動と追跡」を含む「出流山事件」の記事については、「出流山事件」の概要を参照ください。
- 移動と追跡のページへのリンク