社会人野球選手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 03:57 UTC 版)
2005年9月(当時大学3年)、当時所属していた地元の硬式野球クラブ松戸ベースボールクラブTYRが茨城ゴールデンゴールズ(茨城GG)と練習試合をした際、入団テストへの誘いを受け、同年10月16日に稲敷市・桜川球場で行われた「茨城ゴールデンゴールズ 06シーズン選手オーディション」を受験し合格、入団に至った。日本海テレビへ入社した2008年までは在籍していた。在籍当時の背番号は、51。2007年までの同僚・今井政司は高校の同期でもある。 結成から1年ほどたった時、創設者で監督だった萩本欽一の意向で選手を減らすため退団する可能性があったが、地元稲敷市民の働きかけもあり残留。その後、酒井忠晴による指導のもと、バントの練習に取り組み、バント専門要員となった。 2007年9月に行われた全日本クラブ野球選手権大会では、準決勝、決勝と代打で送りバントを決め、優勝に貢献した。 2008年7月6日にグリーンスタジアム倉吉でひらかれた鳥取キタロウズとの交流試合にも出場した。「バントの切り札」(萩本命名)として送りバントを決めている。また、同年にGGが鳥取へ来てからは、地元チームである鳥取キタロウズの練習に参加していたこともある。
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