田辺又右衛門
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田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 - 1946年1月20日[1][2][3][注釈 1])は日本の柔術家(不遷流4世・宗家)、柔道家(大日本武徳会範士)。社団法人兵庫県柔道整復師会初代会長。
注釈
- ^ 没月日を1月28日とする文献もある[4]。
- ^ 免許皆伝を1891年9月、22歳の時とする文献もある[2][4]。
- ^ 金谷に巴投で投げられた相手が背中から畳に落ちる時には、相手は首が絞まって落ちていたという[5]。
- ^ 3度目の試合で戸張は膝の関節を痛め、以後は試合を諦めて数年間ヨーロッパ各地にて柔道普及の任に当たり、帰国後は大阪を拠点に関西柔道界の重鎮として活躍した[5]。
- ^ 先立つ事4年、1895年に大日本武徳会が設立され、武徳会の演武会等で講道館柔道が名を馳せて次第に武徳会の中心的地位を占めるようになっていくと、田辺のほか起倒流の今井行太郎、双水執流の青柳喜平といった古流柔術の大家達は一致団結してこれに反発し、その名誉を掛けて1900年5月5日に勝負する事を取り付けた経緯があった[8]。しかし1899年の秋に岡山市の後楽園で開催された武術会に磯貝が武徳会代表として赴くと、会場で磯貝を見つけた田辺は演武係に強引に頼んで、急遽「磯貝対田辺」の組み合わせを作ってしまったという[8]。
- ^ 講道館柔道の佐村嘉一郎の父親である。流派は竹内三統流であったが、子の佐村嘉一郎を講道館柔道に入門させた。田邊又右衛門と講道館柔道の試合で審判を務めることが多かった。
- ^ この議論は各流派が何とか自流の手を少しでも多く加えたい一心で互いに譲らず、揚心古流の戸塚英美などは自流の形約400を実演して見せる程であった。ただし戸塚はこの無理が祟って病気になり、2年後に他界している[13]。古流柔術側から乱取り不要論も飛び出したが、山下義韶や横山作次郎がこれに応戦して口角泡を飛ばした[13]。
- ^ 神田連雀町にあった盛眞大和流柔術指南所(天神真楊流の分派)水谷正治の水谷整骨院と考えられる。
出典
- ^ a b 嘉納行光、川村禎三、中村良三、醍醐敏郎、竹内善徳 『柔道大事典』佐藤宣践(監修)、アテネ書房、日本 (原著1999年11月21日)。ISBN 4871522059。"田辺又右衛門 -たなべまたえもん"。
- ^ a b c d 工藤雷助 『“熊本の柔術”・神戸の不遷流 -不遷流柔術の“快傑”田辺又右衛門-』東京スポーツ新聞社、1973年5月25日。
- ^ a b c d e 中野銀郎著『接骨學會紳士録』接骨學會事務局,1936年
- ^ a b c 加来耕三 『鰻と蛇で講道館を負かした男 田辺又右衛門』毎日新聞社、1993年7月30日。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p くろだたけし (1980年6月20日). “名選手ものがたり8 -不遷流 田辺又右衛門-”. 近代柔道(1980年6月号)、57頁 (ベースボール・マガジン社)
- ^ a b c d e 野間清治 (1934年11月25日). “柔道範士”. 昭和天覧試合:皇太子殿下御誕生奉祝、798頁 (大日本雄弁会講談社)
- ^ 工藤雷助 (1973年5月25日). ““熊本の柔術”・神戸の不遷流 -不遷流柔術の秘伝-”. 秘録日本柔道、113-114頁 (東京スポーツ新聞社)
- ^ a b c d e f 工藤雷助 (1973年5月25日). “磯貝一の巻 -不遷流の牙城に斬り込んだ磯貝-”. 秘録日本柔道、65-67頁 (東京スポーツ新聞社)
- ^ 『柔術の遺恨』敬文舎、2022年6月23日、138頁。
- ^ 『柔術の遺恨』敬文舎、2022年6月23日、220,354頁。
- ^ 『柔術の遺恨』敬文舎、2022年6月23日、309頁。
- ^ 山縣淳男 (1999年11月21日). “大日本武徳会制定柔術形 -だいにほんぶとくかいせいていじゅうじゅつかた”. 柔道大事典、290頁 (アテネ書房)
- ^ a b 工藤雷助 (1973年5月25日). “大日本武徳会の柔道 -形制定で講道館と古流が七昼夜の大論戦-”. 秘録日本柔道、119-121頁 (東京スポーツ新聞社)
- 1 田辺又右衛門とは
- 2 田辺又右衛門の概要
- 3 脚注
- 田邊又右衛門のページへのリンク