獺野原の戦いとは? わかりやすく解説

獺野原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 09:28 UTC 版)

獺野原の戦い(うそのばるのたたかい)は、永禄2年(1559年)5月中旬から8月16日[1]にかけての約3ヶ月間、肥後国相良氏の領内で続いた内乱を決することになった戦いである。些細な私事を発端とする内乱ながら戦国時代球磨郡内で最大の合戦となった。


  1. ^ 日付については複数の説あり。
  2. ^ 身分はであり、丸目家の私有財産として、自由な移動を禁じられた女性である。
  3. ^ 湯前城址は、現在湯前町の(市房山神宮)里宮神社の敷地である。市房山神宮は水上村にある霊山市房山を本体とし、山中の本宮、山麓の一の宮神社(中宮)、町内の里宮神社(下宮)の3社で構成される。もともとは里宮はなく、参拝が不便であるために里に造られたのでこの名前がある。
  4. ^ 所在地不明。多良木庄の地頭となった相良頼景(初代相良長頼の父)の館とされる「内城」が多良木町黒肥地蓑田集落にあるが、多良木城と呼ばれる場所が具体的にどれをさすかは不明。鍋城は第三代当主相良頼俊の次兄である相良頼氏が築いたもので、同地には近くにいくつかの外城(「里の城」など)があり、どのような関係性であるか詳細が伝わっていない。
  5. ^ 『嗣誠独集覧』には、「祠には人吉方70人、東方53人、両者討ち死には上下400余人、直政らの女中を合わせると500余人か」と記されており、相違がある。
  6. ^ 南藤蔓綿録』にはその説とともに「中山和泉が直政の妻子を西光寺谷の阿弥陀堂へ誘い出して殺害後に自らも自害した」とする説も併記している。


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