牧野秀成の怪死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)
初代長岡藩主牧野忠成には、異母弟の牧野秀成がいた。兄の忠成は性格が激しく、弟の秀成は温厚で人望があり、秀成を担ぐ勢力が藩内にあった。秀成は、古志郡椿沢村の椿沢寺に幽閉されたが、暗殺または、詰め腹を切らされたという伝説がある。 秀成が没したのは、寛永14年6月6日(1637年7月27日)であるが、同年6月22日(8月12日)に牧野忠成の嫡子・光成が急死し、その死により長岡藩は、(忠盛vs.与板候・三根山候)のお家騒動に発展した。このため、秀成の怨霊説が囁かれて、秀成は、弥彦神社付属の十柱神社に手厚く祭祀された。 十柱神社の四宮は、牧野主水秀成、牧野出羽守、神戸赤左衛門、宮内卿女であるが、明治の神仏分離令により境内で祭祀が廃止されている(牧野出羽守の詳細→牧野保成)。
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