浪士組・壬生浪士組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 14:51 UTC 版)
文久3年(1863年)、清河八郎発案の浪士組に参加し、役職(目付役)を与えられるが何らかの落ち度で降格。京(現在の京都市)に上りいざこれからという時に、清河は浪士組を率いて江戸へと帰って攘夷を行おうとした。多くの者がこれに賛同し、清河に付き従ったが、殿内は鵜殿鳩翁から、家里次郎と共に浪士組内の壬生村での残留者の取りまとめを任される(殿内と家里は、募集する側の責任者だったので、名簿に記載されていない)。壬生には芹沢鴨・新見錦・平山五郎・粕谷新五郎・平間重助・野口健司ら(水戸藩出身者)、近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・原田左之助・沖田総司・井上源三郎・藤堂平助ら(試衛館道場の者)、斎藤一・佐伯又三郎ら(京で参加した者)、根岸友山・清水吾一ら(根岸派)が集まり、壬生浪士組(後の新選組)を結成する。 最初の壬生浪士の筆頭格だった近藤・芹沢・根岸らは既にそれぞれ派閥を形成していたが、殿内と家里は江戸幕府の信用で筆頭格になったので派閥らしいものはなく、旧知の根岸らと近かったとされている。
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