治世の前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 15:00 UTC 版)
「コンスタンティン・ティフ」の記事における「治世の前期」の解説
1257年のブルガリア皇帝カリマン2世の死後にベオグラードの総督ロスチスラフ・ミハイロヴィチによって皇帝に推されたミツォ・アセンに対して、ブルガリアの貴族はコンスタンティン・ティフを皇帝に擁立した。 1261年にコンスタンティンの軍はミツォ・アセンから決定的な勝利を収め、敗れたミツォ・アセンは東ローマ皇帝ミカエル8世の元に亡命した。コンスタンティンは帝位の正当性を強調するため、アセン家の血を引くニカイア皇帝テオドロス2世の娘イレネ (Irene Doukaina Laskarina)と結婚し、「アセン(Асен)」姓を名乗った。1259年から1261年にかけて、コンスタンティンはミツォ・アセン以外にハンガリーとも戦わなければならなかった。1259年にハンガリー軍はブルガリアに侵入し、1260年にコンスタンティンは短い期間セヴェリンを支配した。しかし、1261年にハンガリーの王子イシュトヴァーンに率いられたハンガリー軍はセヴェリンを奪回し、ブルガリアの支配下にあったヴィディンとロムを一時的に占領した。ブルガリア軍はヴィディンを統治するロシア出身の貴族ヤコブ・スヴェトスラフの指揮下で失地を奪回した。 1261年にニカイア皇帝ヨハネス4世がミカエル8世によって廃位された後、ヨハネス4世の義兄弟にあたるコンスタンティンはミカエル8世と敵対する。1264年にモンゴル国家のジョチ・ウルスの軍隊が再興した東ローマ帝国の領土に侵入するとブルガリア軍も入寇に参加するが、ブルガリアの国威を向上させるほどの成果は挙げられなかった。
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