沢田源内
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沢田 源内(さわだ げんない、元和5年(1619年) - 元禄元年(1688年)[1])は、江戸時代前期の偽書・偽系図の製作者。幼名を喜太郎。近江国雄琴村(現・滋賀県大津市雄琴地区周辺)の人。佐々木氏の正統である六角氏嫡流を称し、六角中務氏郷や六角兵部氏郷と称したとされる[2]。
- ^ 滋賀県百科事典刊行会編 『滋賀県百科事典』大和書房、1984年
- ^ a b c d e f g 建部賢明 & 大系図評判遮中抄, p. 1.
- ^ 佐々木定賢は照会を受けたのは自分の再従父にあたる佐々木高重だとしている(佐々木氏偽宗辯, p. 396)
- ^ a b 近江蒲生郡志, p. 757.
- ^ 建部賢明 & 大系図評判遮中抄, p. 1-2.
- ^ a b c d 建部賢明 & 大系図評判遮中抄, p. 2.
- ^ 佐々木定賢は稲葉丹州君が京都所司代であった時期にその建議を行ったとしている(佐々木氏偽宗辯, p. 396)。この時期に京都所司代であった稲葉氏の人物は、天和元年(1681年)11月から貞享4年(1688年)まで在職した稲葉正往(丹後守)である
- ^ a b 近江蒲生郡志, p. 758.
- ^ a b 勢田道生 2010, p. 7.
- ^ 佐々木氏偽宗辯, p. 396.
- ^ 佐々木氏偽宗辯, p. 397.
- ^ 六角義賢の子、六角義治の跡を継いだと伝える義治弟・六角義定(高定)の長男高義の子孫。高義は伯父義治の娘との間に定治があり、定治は祖父・義治の養子となって嫡流を継いだとする。令和元年(2019年)に六角定頼の伝記を刊行した村井祐樹は酬恩庵(京田辺市)にある六角義賢・義治の墓所・位牌を真正と判断し、同庵の文書から同庵が加賀藩士佐々木氏と連絡を取り続けていた事実を指摘して、同家が六角氏の嫡流であったと断定している(村井『六角定頼』(ミネルヴァ書房、2019年)、P292-297.)。
- ^ 佐々木氏偽宗辯, p. 396-397.
- ^ なお建部賢明は旗本の佐々木高重を六角氏嫡流(義定次男・高和の末裔)とする。『寛政譜』では佐々木六角氏は義治で切れており、六角義定の流れは庶流扱いである。
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