江川卓 (野球)
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江川 卓(えがわ すぐる、1955年〈昭和30年〉5月25日 - )は、福島県生まれ[1]の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球解説者、タレント、YouTuber。
注釈
- ^ 1966年のいわき市発足前で、当時は石城郡好間村。
- ^ a b 佐久間町大井の本来の通学区は山香小、山香中(両校とも廃校)だったが、父の方針で生徒数の多い佐久間小、佐久間中に越境通学していた。
- ^ 夏の大会記録は、2012年夏に桐光学園・松井裕樹が記録した10者連続奪三振。
- ^ 迫田監督の策に嵌った江川は、この試合で計8四球を与えている。
- ^ 【対柳川商戦での6連続三振内訳】全22球:直球20、カーブ2。 ボール4、ストライク18(直球17)。 そのうち空振り10、ファウル6、見送り1。 カーブ空振り1。
- ^ 延長戦による記録であるため参考記録扱い。公式記録における1位は松井裕樹(桐光学園)の22奪三振。参考記録を含めた1位は板東英二(徳島商)の18回25奪三振。
- ^ 上位十傑の2位以下は、2位:板東英二(徳島商)…12.1(62回・83奪三振)、3位:藤浪晋太郎(大阪桐蔭)…10.7(76回・90奪三振)、4位:尾崎行雄(浪商)…10.3(89回・102奪三振)、5位:島袋洋奨(興南)…10.1(115回2/3・130奪三振)、6位:田中将大(駒大苫小牧)…10.1(91回1/3・102奪三振)、7位:柴田勲(法政二)…9.8(103回2/3・113奪三振)、8位:松坂大輔(横浜)…8.8(99回・97奪三振)、9位:ダルビッシュ有(東北)…8.5(92回・87奪三振)、10位:牛島和彦(浪商)…8.4(100回・93奪三振)である。
- ^ 桐光学園の松井裕樹は、甲子園通算の奪三振率は17.0で江川を上回ったが、甲子園への出場は2012年夏の1回のみで、通算奪三振数は68であり、甲子園通算80奪三振に達していないので、この記述では除外する。
- ^ 最年少ベストナイン投手の記録は33年後の2007年春に当時早大1年生で19歳の誕生日直前だった斎藤佑樹が更新。
- ^ 阪急(またはオリックス)の1位指名を拒否した高校3年生が大学1年生時に明治神宮野球大会の決勝戦で先発投手となった例は江川の他に1999年の九州共立大・新垣渚の例がある。
- ^ 1975年春秋は明大が連覇。法大は上級生と下級生の軋轢があり、殊に秋のリーグ戦は江川の肩の不調もあり、優勝を逃している。
- ^ この年、早大には岡田彰布(北陽高→早大→阪神→オリックス)が入学。秋のリーグ戦で7番レフトで登場した1年生の岡田は江川からいきなり3打数3安打を放っている。だが、その後は江川は岡田に対してシュートを交えて全力で投げ抑えている。
- ^ 通算勝利、奪三振はともに史上2位だが、通算40勝と400奪三振を両方記録しているのは江川のみである[25]。
- ^ なお、昭和52年最終学年組全選手の首位打者は江川で、通算打率は.309。以下、②金光.304 ③袴田.299 ④堀場.282 ⑤山倉.276 ※70ゲーム(210打席)以上。
- ^ 当時の野球協約では、ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日までとされていた。
- ^ ただし、のちにドラフト外という手段で明大・鹿取義隆ら新人選手を10人獲得している。
- ^ 日本プロ野球ドラフト会議史上、ドラフト1位指名を3回も受けたのは江川のみである。
- ^ あくまでも球団側の要請による「自粛」であり、「出場停止」ではない。
- ^ この年の江川は山根和夫(広島)と並ぶ3完封で1位タイ。1980年、81年、82年は単独1位だった。
- ^ シーズン防御率5.28は、この年のセ・リーグ規定投球回到達投手の中では最下位。
- ^ この年の7勝目、通算102勝目を挙げた7月12日の阪神戦では、7回から登板して9回までの3イニングを自責点0のパーフェクトリリーフ。江川にとってはプロ生活唯一のレギュラーシーズンでの救援勝利となった(同試合で江川の女房役・山倉和博が3イニング連続本塁打)。
- ^ 勝利数はリーグ2位、防御率と勝率はリーグ3位。
- ^ この年の小早川はリーグ最多の16勝利打点を挙げている。また、小早川はヤクルトに移籍した初年度の開幕戦(1997年4月4日)で、前年の沢村賞受賞者である巨人の開幕投手・斎藤雅樹から3打席連続本塁打を記録しているが、その試合のテレビ中継の解説者は江川だった。
- ^ 「江川なんと自由契約 何をしようと球団関知せず OBら名選手はみんな任意引退 『強い信頼関係ある』長谷川代表」という記事がある[43]。
- ^ 1987年5月10日、江川は、作新学院時代にバッテリーを組んだ小倉偉民の実姉・睦美の夫だった男性(二人は1983年に離婚)の叔父である亀岡高夫(衆議院議員)と小倉自身が前年秋に養子縁組をした記念にホテルニューオータニで開催された政治資金パーティーにゲスト参加した。本来、そのパーティーは丸1か月前の4月10日に予定されていたが、当日は星野仙一新監督が率いる中日ドラゴンズ(この年、トレードによって落合博満が新加入)との開幕戦の日だったことから、(江川が開幕投手となることを想定して)パーティーの開催日は1か月延期された。しかし、開幕投手には西本が選ばれたため、江川は王監督に不信感を抱いたという。江川は翌11日の開幕第2戦に先発、7回を投げて自責点2に抑え、シーズン初勝利を挙げている[要出典]。
- ^ この話にはオチがあり、引退記者会見後では写真の差し替えが間に合わず、結局江川の写真はそのままカレンダーに使われ、そのカレンダーは当時過去最高の売上を記録したという[49]。
- ^ 公式戦の通算打撃成績は、625打数117安打、打率.187、13本塁打、47打点。
- ^ 当初は純金パターを作らせるつもりだったが、業者から「純金だと重過ぎて振れない」といわれ、純銀になったという。なお実際には純銀でも重過ぎたため、のちに一部をくり抜いてロウを埋める改造を加えたとのこと[76]。
- ^ 1980年…江川(チームはセ・リーグ3位)、1981年…西本(同優勝)、1982年…江川(同2位)、1983年…西本(同優勝)、1984年…江川(同3位)、1985年…西本(同3位)、1986年…江川(同2位)、1987年…西本(同優勝)
- ^ 当時は最多奪三振の連盟表彰はなかったが、日本野球機構オフィシャルサイト 年度別成績 には、1980年、1981年、1982年の「最多奪三振」として江川の名前が記載されている。なお、セントラル・リーグでは、1991年より最多奪三振の表彰が開始された。
- ^ 当時は最高勝率の連盟表彰はなかったが、日本野球機構オフィシャルサイト 年度別成績 には、1981年、1984年の「最高勝率」として江川の名前が記載されている。なお、タイトルとしての「最優秀勝率投手」および「勝率第1位投手」については、「最高勝率 (野球)」を参照のこと。
- ^ 江川と掛布の対談集。
出典
- ^ 日本テレビ「江川卓プロフィール」
- ^ a b 『プロ野球データブック'84』(宇佐美徹也著、講談社文庫、1984年)p.421
- ^ 「江川卓氏「山本由伸もいるし」WBCの大谷とダルの起用法 4番候補・鈴木の打順を予想」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2022年12月15日。2022年12月15日閲覧。
- ^ 【新連載】福島に生きる 「かわいそうだから、じゃない!」 ~オールスターゲームがいわき市であるワケ~(馬路雄、ダイヤモンド・オンライン、2013年5月27日)
- ^ されど江川 (1988), pp. 23–24.
- ^ されど江川 (1988), pp. 25–26.
- ^ されど江川 (1988), pp. 33–36.
- ^ 「地肩の強さは天竜川の石投げから/江川卓7」『日刊スポーツ』2017年12月6日。2020年9月29日閲覧。
- ^ されど江川 (1988), pp. 36–38.
- ^ a b Number 105. (1980年8月20日).
- ^ されど江川 (1988), pp. 38–44.
- ^ 「実はへばっていた初の完全試合/江川卓8 - 野球の国から 高校野球編 - 野球コラム」『日刊スポーツ』2017年12月7日。2021年5月22日閲覧。
- ^ 「栄光を追いかけて:栃木の高校野球1世紀/3 作新学院・江川卓投手 「怪物」速球にどよめき /栃木」『毎日新聞』2017年12月7日。2021年5月22日閲覧。
- ^ . 文藝春秋. (2011年10月号)
- ^ 「元祖“怪物”…江川卓が残した数々の伝説」『BASEBALL KING』2016年2月19日。2021年5月22日閲覧。
- ^ 「怪物・江川」の残像 元広島の達川・大野「格が違う」 - 高校野球:朝日新聞デジタル
- ^ 「大会記録|選抜高校野球」『毎日新聞』。2023年1月17日閲覧。
- ^ 73年、江川雨中の押し出し/夏の甲子園(日刊スポーツ、2011年8月9日)
- ^ 「江川が投じた最速の一球<後編>」二宮清純、2018年9月2日。2018年9月2日閲覧。
- ^ 元巨人篠塚氏を育てた“怪物・江川”の剛速球 高校時代に絶望した「見たことない球」 - ベースボール専門メディア Full-Count
- ^ a b 『豪球列伝』の江川の項参照。
- ^ されど江川 (1991), pp. 60–61.
- ^ されど江川 (1991), pp. 56–58.
- ^ 空白の一日までを掛布が江川卓に直撃!ドラフト1位指名3回に至るまでに何が起こったのか初公開! 2022年2月6日 - YouTube
- ^ 「東京六大学野球リーグ戦 個人投手記録」一般財団法人 東京六大学野球連盟。2017年2月4日閲覧。
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- ^ a b c d 江川にこみ上げる涙「申し訳ない気持ち一生持ち続ける」最後の言葉は「元気でやれよ」虎番疾風録其の四 小林繁伝(431) 産経新聞 2024年4月4日
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- ^ 「【6月2日】1979年(昭54) “元チームメイト”江川粉砕 4年目ラインバックが逆転弾」『スポーツニッポン』2008年6月1日。2013年6月16日閲覧。
- ^ 『日本野球25人 私のベストゲーム』参照。
- ^ 第11回 「印象に残る契約更改」名鑑 週刊野球太郎
- ^ 若手時代の原辰徳も憧れた超大物大リーガーが巨人へ、“ティーチャー”スミスとは?/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】 | 野球コラム - 週刊ベースボールONLINE
- ^ 『巨人-阪神論』p.122
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- ^ 気がつけば40年(22)夢のまた夢に終わってしまった江川VS掛布の監督対決 バブル崩壊のツケ スポニチ Sponichi Annex
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- ^ 【ラミレス登場】日本に来て衝撃だったこと!練習しすぎて頭がどうかしてると思った!〇〇を変えて打てるようになった!?江川卓も気付かなかったラミレスの工夫! 江川卓のたかされ 2023/07/17 (2023年7月30日閲覧)
- ^ こういう前提で番組作るから「○○は170km/h出ていた!」みたいな番組ができるんですよね。 んなわけない。 ダルビッシュ有(Yu Darvish)Xアカウント 午前11:22 · 2019年6月10日 (2023年10月16日閲覧)
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- ^ 「江川卓と工藤公康が初の対談を実施! 「カーブの達人」「現代の魔球」などを語る」『スポーツナビ』2023年6月21日。2023年6月27日閲覧。
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- ^ 歴代最高記録 被本塁打 【通算記録】 日本野球機構
- ^ 「【8月16日】1980年(昭55) 電撃トレードから564日、江川卓vs小林繁 雨中の決着」『スポーツニッポン』2007年8月16日。2011年6月16日閲覧。
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- ^ されど江川 (1991), pp. 219–220.
- ^ 江川卓氏親戚有未さんアメザリ平井と結婚 - asahi.com 2007年01月26日
- ^ 西本聖 「エース」の座を争った江川卓との9年間(全4回)(アサ芸プラス、2012年6月22日 - 7月2日)
- ^ 「富士通「夢をかたちに」スペシャル 『20世紀スポーツ名勝負 ライバル伝説…光と影 封印された涙の理由…』」『TBSテレビ』2009年7月20日。2012年6月16日閲覧。
- ^ 『巨人-阪神論』p.96、p.135
- ^ 『少年サンデーグラフィック』に掲載の原作者インタビューによる。
- 1 江川卓 (野球)とは
- 2 江川卓 (野球)の概要
- 3 概要
- 4 人物
- 5 西本聖とのライバル関係
- 6 著書
- 7 脚注
「江川卓 (野球)」の例文・使い方・用例・文例
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