樹木としての「ゲルニカの木」
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「ゲルニカの木」の記事における「樹木としての「ゲルニカの木」」の解説
中世には、ビスカヤ地方の村々の代表者は地元にある大木の下で集会を行い、ビスカヤ領主はこの木の下でビスカヤの特権の尊重を誓った。1839年までは、この誓いなしには領主として認められなかった。時が経つと、オークは「集会」の象徴的な意味となり、実際の集会は会議専用のバスク議事堂(スペイン語版)(現在の建物は1833年完成)で行われるようになった。1930年代後半のスペイン内戦で、ゲルニカはフランシスコ・フランコ将軍の援助を受けたドイツ軍によるゲルニカ空爆を受けた。ゲルニカの町は瓦礫の山と化したが、バスク議事堂の建物とゲルニカの木のみは無事だった。このことがフランコ側の「ゲルニカ空爆はバスク軍自身による犯行」という主張の根拠となった。フランコの軍隊がゲルニカの町を奪うと、カルリスタの有志によるベゴニャの義勇軍がゲルニカに駆け付け、バスク民族主義の象徴である「ゲルニカの木」を保護するために木の周囲に武装した見張りを置いた。1936年、バスク自治政府初代レンダカリ(政府首班)のホセ・アントニオ・アギーレがこの伝統を復活させ、以後のバスク自治州政府レンダカリは就任後にこの木の下で宣誓を行っている。 世代生育期間画像備考第1代 14世紀-1742年 Aita HaritzaまたはÁrbol Padre(父親の木)。 14世紀に植えられ、450年ほど生育した。 第2代 1742年-1892年 Haritz ZaharraまたはÁrbol Viejo(古い木)。 1811年に植え替えられた。第2代の幹はバスク議事堂(スペイン語版)の敷地にある金色の聖堂に囲われて保存されている。 第3代 1858年-2004年 Haritz SemeaまたはÁrbol Hijo(息子の木)。 1860年に植え替えられた。1937年のゲルニカ空爆を生き残ったが、菌病のために移植を余儀なくされた。バスク自治州政府の庭師は第3代のドングリから何本かの代替木を育てた。 第4代 1986年- 2005年2月25日、第3代が植えられていた場所に植え替えられた。単に「ゲルニカの木」と言えば第4代を指す。
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