松竹と楽天地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 18:50 UTC 版)
双生児の兄弟、白井松次郎と大谷竹次郎が、1905年、「松竹合名会社」を設立(大阪市南区葦原町)。1920年2月、「松竹キネマ合名会社」を設立、同年松竹蒲田撮影所を開所し、映画製作を始める。同年11月、「帝国活動写真株式会社」(帝活)を設立する。同社の取締役に、かつて山川と「天活」を設立した小林喜三郎がいた。翌1921年4月、「帝活」は「松竹キネマ株式会社」と改称、「松竹キネマ合名会社」を合併する。 「ミナミの大火」被災の2年後の1914年5月、南海電気鉄道社長に声をかけられ、山川は、現在の千日前通にあたる拡張された電車通りにできた、新しい「千日前交差点」の南西隅に、劇場・演芸場・レジャーの殿堂「楽天地」を建設した。同年7月にオープンし、大盛況を極めた。「楽天地」の運営会社は南海系列の「千日土地建物」(のちの日本ドリーム観光)であったが、相場師石井定七に株を買い占められ、1920年、「千日土地建物」は南海から石井の「今定商店」傘下に入る。1921年7月、松竹の白井松次郎が大株主となり、「楽天地」を改修、「楽天地」は同年10月から松竹直営となった。1923年1月、石井の「千日土地建物」株を白井が引き受け社長となり、松竹傘下となった。 1930年11月に「楽天地」は閉鎖された。1932年10月、その跡地には松竹によって「大阪歌舞伎座」が建った。
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