松井宗恒
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松井 宗恒(まつい むねつね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、甲斐武田氏の家臣。遠江国二俣城主。
- ^ 「…右、代々判形・天沢寺殿判形の旨に任せ、宗恒に領掌す、永く相違有る可からず…」(下記、関連古文書 2)
- ^ 「…右、天沢寺殿判形之旨に任せ、自今以後、謂われ無く離る可からず…」(下記、関連古文書 3)。
- ^ 「父左衛門佐宗信、度々軍忠抽んずるの事 …(中略)… 永禄三庚申年十二月二日、氏真(花押)、松井八郎殿」(下記、関連古文書 1)
- ^ 蔭山尾張守以下の武士51名と公文6名である。(下記、関連古文書 3)。
- ^ 松井信薫の子とされ曳馬城主飯尾氏と縁戚という。
- ^ 宗恒の叔父にあたり家康に属したとされる。
- ^ 鵜殿三郎は鵜殿長照の子・氏廣(氏長とも)で三河国上ノ郷城主。氏廣は永禄5年上郷城が家康に攻められて落城の際、徳川方に弟・氏次と共に捕らえられたが、駿府で人質だった家康の正室・築山殿及び嫡子・信康と人質交換されて氏廣・氏次は今川方に復帰した(『三河物語』・『家康の族葉』 239頁、下記の参考文献 4・5)。
- ^ 氏廣は永禄11年当時まで二俣城に今川方の城将として番詰めをしていたと考えられる。元亀3年(1572年)の開城後、氏廣は家康に仕えて天正19年(1591年)には知行1700石を賜り徳川氏旗本に返り咲いている(「断家譜・巻15」、下記の関連古文書5)。
- ^ 「… 一、二俣之城、鵜殿并びに二俣先方廿三人、居城に出し置く事、…(中略)… 一、二俣籠もるの人数、駿府の時の如く相違有る間敷き事、…」(下記、関連古文書 4)
- ^ 『家忠日記』天正11年正月に「十一日乙丑、東條周防娘濱松井兵部輔所ニ祝言候。」とある(下記、参考文献 6の148頁)。
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