東京市区改正条例による事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/30 01:33 UTC 版)
「市区改正」の記事における「東京市区改正条例による事業」の解説
1888年(明治21年)、内務省によって東京市区改正条例(勅令第62号)が公布され、東京市区改正委員会(元府知事の芳川顕正が委員長)が設置された。建築物の規制などは当初検討されたものの、結局行われなかった。 翌1889年に委員会による計画案(旧設計)が公示され、事業が始まった。しかし、財政難のため事業は遅々として進まなかった。 都市化の進展から事業の早期化が必要になり、1903年(明治36年)に計画を大幅に縮小(新設計)した。日露戦争後の1906年(明治39年)、東京市に臨時市区改正局を設置、外債を募集して、日本橋大通りなどの整備を急速に進めた。1914年(大正3年)、ほぼ新設計どおり事業が完成した。 主に路面電車を開通させるための道路拡幅(費用は電車会社にも負担させた)、及び上水道の整備が行われた。現在の日本橋もこの事業で架け替えられた。神田・日本橋・京橋付近では道路拡幅に伴い、従来の土蔵造の商家に交じって、木造漆喰塗の洋風建築が思い思いに建てられるようになり、人目をひいた。これらの建物は当時の建築家から「洋風に似て非なる建築」と評された。
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