月2回発刊誌から週刊誌へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:37 UTC 版)
「週刊少年ジャンプ編集部」の記事における「月2回発刊誌から週刊誌へ」の解説
1969年(昭和44年)、ライバルである講談社が幼年向け月刊誌『ぼくら』を『週刊ぼくらマガジン』として週刊化する方針が伝わる。これを受けて小学館ではそれに対抗する新しい週刊誌の発行を模索するが、当時の小学館には全くの新雑誌を創刊できる余力がなかったため、同じ一ツ橋グループである集英社の『少年ジャンプ』を週刊化して対抗することを決定。これにより少年ジャンプは当初の目標だった週刊誌化を果たす。 これに伴い『少年ブック』は休刊が決まり、少年ブック編集部は少年ジャンプ編集部に統合される。少年ブック編集部の編集者と宣伝課からの6名の異動により、8名だった少年ジャンプ編集部は14名になった。この時加わったメンバーには前年1968年に集英社に入社および少年ブック編集部配属になり、後に『トイレット博士』を担当する角南攻もいた。他週刊少年誌の編集部は当時でも20名以上で構成されており、14名と増えても以前と変わらず人材不足の状態であった。実際に2009年5月時点のWJ編集部の人数は22名とその後増えている。 長野体制において、専属契約制度やアンケート至上主義も考え出されるなど、基本となる構造はこの時期に培われた。 詳細は「週刊少年ジャンプ#特徴」を参照
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