新潟赴任と植物との出会い
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「ユルバン・ジャン・フォーリー」の記事における「新潟赴任と植物との出会い」の解説
来日後、しばらくは日本語学修の傍らカトリック神田教会の前身である外国語学校でフランス語を教える教師をしていたが、1873年(明治6年)の秋には助任司祭として新潟教会へ赴任した。新潟での布教活動はまったく成果が上がらず、フォーリーは悲嘆する日々を送っていたが、1874年(明治7年)に植物学者のアドリアン・ルネ・フランシェより依頼を受け、日本の植物採集を始めた。また同年4月には新潟教会の主任司祭だったイブラードのもとへ原敬が書生として働く事となったため、フォーリーは原と日常生活を共にし日本語を学んだ。 フォーリーは新潟を中心に新発田や五泉、三条地方へ布教活動も兼ねて植物採集を行い、標本をフランスのフランシェへ送った。1875年(明治8年)、フランシェはフォーリーの標本を元にルドヴィク・サバティエと共に『日本植物目録』(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium) を発表した。更に1879年(明治12年)には『フランス植物学会誌』第26巻82項に自身の研究を発表した。その後、フランシェはパリ自然史博物館に勤務するようになったため、フォーリーもパリ自然史博物館との関係を結ぶようになった。 1875年(明治8年)9月、主任司祭のイブラードが横浜へ転任となり、原敬も新潟を去った。翌10月にイブラードの後任であるドルワールが新潟教会の主任司祭に着任すると、フォーリーはドルワールと共に布教活動を行った。この頃になると少しずつ信徒も増え布教活動の成果が見られるようになったが、1877年(明治10年)9月に新潟へ赴任してきたツルペンと交代し東京へ転出した。
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