断作戦の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 04:35 UTC 版)
この頃、第33軍は、中国軍の総兵力を雲南遠征軍15個師、新編軍6個師と判断していた。これに対し、第33軍の兵力は第56師団(約9,000名)、吉田部隊(約1,200名)、山崎部隊(約1,200名)、一刈部隊(約1,000名)、軍直轄部隊(約3,000名)、病院・補給廠等(約4,000名)、合計約19,400名であり、彼我兵力の比はまさに十五対一だった。敵は一つの戦場に全力を集中し、かつ東西挟撃の有利な態勢にある一方、日本軍は、ワンチンからナンパッカにわたる縦深約30kmの広範囲に全兵力を展開していたため、既に術策を講ずる余地はなく、軍の運命はあと一週間と予測された。 1月24日頃、ナンパッカを守っていた一刈連隊は敵に完全に包囲され、公路上には随所に敵兵が出没していた。軍司令部は、ワンチンで敵を防いでいる第56師団の撤退時期を決定する目的で、軍参謀長の山本清衛少将を師団司令部に派遣した。山本参謀長は、公路上を遮断する敵に対し、自ら所在の部隊を指揮して夜襲を決行しつつ、師団司令部への到達に成功した。そして第56師団は、山本参謀長の指導に基づき、ナンパッカ南方のセンウイ-ラシオ間の地区に後退することとなった。師団は錯綜した戦線を逐次整理しつつ撤退を開始し、2月1日朝までにナンパッカ南方要線に態勢を整え、2月10日以降、センウイ以南に新たな陣地を概成して次期作戦を準備した。 1月27日、東西双方から進撃を続けてきた雲南遠征軍、新編軍の両中国軍は劇的な握手を交わし、連合軍待望のレド公路は遂に開通した。昭和19年5月に開始された雲南遠征軍の反攻以来、第56師団を中心とする第33軍は、9か月にわたり優勢な敵の進撃をよく阻止し、印支地上連絡路遮断の重任を果たしてきたが、ここに至って遂に力尽き、断作戦は終焉を迎えた。この間の軍の損害は、戦死8,390名、戦傷4,810名、戦病約5,000名だった。
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