斎藤きちとは? わかりやすく解説

斎藤きち

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/30 10:00 UTC 版)

斎藤 きち(さいとう きち、 1841年天保12年〉[1] - 1890年明治23年〉3月27日[注釈 3])は、幕末安政4年の一時期、初代駐日アメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスに雇用された伊豆国下田日本人女性。幕末開国後、外国人にかしずいた最初の日本人女性として喧伝され[2]、後年「唐人お吉」の異名で呼ばれた[3]


注釈

  1. ^ 「老母きは並にきちは、差し向き渡世も御座なく、上方筋廻船・上下当港滞船の船頭ども衣類、そのほか洗濯等いたし、今日営み居り候…」『安政四巳年七月十日 嘆願書』(吉田常吉『唐人お吉』1983年、85頁。)
  2. ^ 下田奉行の上申書に「内実船方等酒の相手に雇われ罷り出で候女」(『堀田正睦外国掛中書類』『合原猪三郎筆記』)とある(吉田常吉『唐人お吉』1983年、116-117頁。)。
  3. ^ 諸説あり。
    「明治二十三年三月二十七日」「五十歳」(村松春水『実話唐人お吉』1930年、327、365頁)
    「明治二十三年(一八九〇)三月二十三日」「五十歳の生涯」(吉田常吉『唐人お吉』1983年、119頁)
    「宝福寺…過去帳…明治二十四年三月二十五日」「役場の記録は明治二十三年」(竹岡範男『唐人お吉物語』2006年、97、103頁)
    「明治二十三年五月二十七日、五十歳のきち」「死亡したのは二十五日で、二十七日は遺体が引き揚げられた日とも」(菊地明「2 洋妾・斎藤きち」『「幕末」に殺された女たち』ちくま文庫、2015年、35頁)
    「明治24年3月27日」「51年の生涯」(唐人お吉について - 宝福寺公式HP)
    「3月27日…1891年(明治24年)…享年51歳」(お吉祭り - 下田市観光協会)
    「3月27日」「享年50歳」(「お吉」にまつわる物語 - 下田市役所観光交流課)
  4. ^ 尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)という説もある。
  5. ^ 船頭相手の酌婦まがいの芸妓で、副業として客の衣類の洗濯も請け負っていた[4]
  6. ^ 鶴松の実父・澤治から代替わりして名前を譲り受けたもの[8]
  7. ^ 5月25日に川に落ち、5月27日に遺体を引き上げたという説もある[9]
  8. ^ フィクションの世界では入水自殺とされているが、目撃者はなく入水とも事故による水死とも断定するにたりる証拠は存在しない。
  9. ^ 下田奉行所が通達した12ヶ条の取り決めの中に、給金の他にもらった品は届け出るようにとの条項と、妊娠の兆候がある場合はただちに届け出るようにとの条項がある[5]
  10. ^ 以下引用、「(前略)自分が写真を誰に習ったかという大切なことまでも、はっきりとは語っていない。そのため蓮杖の写真の先生については様々な憶説がある。(中略)蓮杖の最も古い談話資料『写真事歴』(明治二十四年に山口才一郎が綴った)にも、当てにならない記述が多いと聞く。どうも蓮杖の言動には、胡散臭さがつきまとう。(後略)」。
  11. ^ 画像は白黒が反転したネガのままで、ガラス板の裏面に黒い布やフェルト等を当てるか黒いニスを塗ってポジの代用にした。ネガ画像が写ったガラス湿板を紙焼きプリントすればポジ画像が得られる。
  12. ^ 著者は「美人芸者の写真」「唐人お吉と間違えられた写真」と断定している。
  13. ^ 古写真収集家の間では「横浜写真」と称される。ファルサーリと横浜写真参照。
  14. ^ 「ファサリ商会」・「ファサーリ商会」とも称する。
  15. ^ 撮影者としてライムント・フォン・シュティルフリート日下部金兵衛・ファルサーリらの名前が挙がるがいずれも状況からの推定の域を出ない。当時の職業写真家は自分以外の写真家の手による作品も販売していたので、記録が無い作品は発売元から撮影者を断定する事が難しい。
  16. ^ 「しゅさいしき」あるいは「てさいしょく」と読む。モノクロの紙焼き写真に絵具を用いて1枚ずつ手作業で着色する技法。カラー印刷が一般的になるまで多用された。
  17. ^ 著者自身も3枚所有している。
  18. ^ 左手に指輪を付けて日本髪だが真ん中から分けた髪形の女性の写真が掲載されている。裏面に「1870-」と記してあり、筆者は下岡蓮杖による1869年 - 1870年(明治元年 - 2年)頃の写真と推定している。
  19. ^ 宝福寺唐人お吉記念館の展示物として当該写真と「Officer's Daughter」(士官の娘)の双方の拡大写真が展示されている。近年における現地下田市での観光客向けのパンフレット・ポスター等でも双方が混用状態である。

出典

  1. ^ a b c 菊地明「2 洋妾・斎藤きち」『「幕末」に殺された女たち』ちくま文庫、2015年、26頁。
  2. ^ 吉田常吉『唐人お吉』1983年、116頁。
  3. ^ 吉田常吉『唐人お吉』1983年、14頁。
  4. ^ 菊地明「2 洋妾・斎藤きち」『「幕末」に殺された女たち』ちくま文庫、2015年、29頁。
  5. ^ a b 菊地明「2 洋妾・斎藤きち」『「幕末」に殺された女たち』ちくま文庫、2015年、29頁。
  6. ^ 菊地明「2 洋妾・斎藤きち」『「幕末」に殺された女たち』ちくま文庫、2015年、28頁、31頁
  7. ^ a b c 菊地明「2 洋妾・斎藤きち」『「幕末」に殺された女たち』ちくま文庫、2015年、30 - 32頁。
  8. ^ 「唐人お吉年表略」『実話唐人お吉 村松春水』平凡社、1930年、568-569頁。 (国立国会図書館デジタルコレクション)2019年6月21日閲覧。
  9. ^ a b c d e f 菊地明「2 洋妾・斎藤きち」『「幕末」に殺された女たち』ちくま文庫、2015年、33 - 37頁。
  10. ^ 宝福寺 歴史2019年6月15日閲覧。
  11. ^ 下田まち遺産 お吉ヶ淵」 2023年5月29日閲覧。
  12. ^ 「斎藤きち溺死事件の真相を探る」『幕末お吉研究会』2019年6月15日閲覧。
  13. ^ コトバンク 唐人お吉2019年6月15日閲覧。
  14. ^ 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』「第三章 下岡蓮杖写真鑑定術」〈コロナ・ブックス16〉平凡社、2004年、42 - 43頁[注釈 10]
  15. ^ 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』「第三章 下岡蓮杖写真鑑定術」〈コロナ・ブックス16〉平凡社、2004年、38 - 60頁。
  16. ^ 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』〈コロナ・ブックス16〉平凡社、2004年、54 - 55頁。
  17. ^ a b 石黒敬章「幕末・明治のおもしろ写真」〈コロナ・ブックス16〉平凡社2004年、104頁[注釈 12]
  18. ^ 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』〈コロナ・ブックス16〉平凡社2004年、104頁[注釈 14]
  19. ^ 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』〈コロナ・ブックス16〉平凡社、2004年、94頁[注釈 17]
  20. ^ Die Körperformen in Kunst und Leben der Japaner Carl Heinrich Stratz, 1925, p582019年6月15日閲覧。
  21. ^ 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』「第三章 下岡蓮杖写真鑑定術」〈コロナ・ブックス16〉平凡社、2004年、49頁[注釈 18]
  22. ^ 演芸画報』昭和6年9月号、p.3。
  23. ^ 唐人お吉記念館 宝福寺、2023年5月22日閲覧。
  24. ^ お吉祭り 伊豆下田観光協会2023年5月22日閲覧。
  25. ^ OPAC NDL 検索結果、国立国会図書館、2010年2月21日閲覧。
  26. ^ 「お吉」漫画、27日発売 幕末お吉研―下田伊豆新聞(2018年3月23日)2018年3月28日閲覧。


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