慕容盛時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 02:19 UTC 版)
同年、段速骨を殺した蘭汗が慕容宝から簒奪すると、慕容熙を遼東公として慕容氏の祖先を祀らせた。慕容熙の甥の慕容盛が蘭汗を殺して即位すると、王を公に降格させたので慕容熙は河間公になり、また都督中外諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・領中領軍となった。400年、慕容盛は契丹と高句麗を攻撃し、慕容熙は勝利に貢献して慕容盛からその勇猛を慕容垂と比されたが、大略に欠けると評価された。 慕容熙は慕容盛の伯母の丁氏と親密な関係にあった。401年に慕容盛が死ぬと群臣は年長の者を望んで、慕容盛の太子の慕容定ではなく弟の慕容元を推したが、丁太后は太子を廃して慕容熙を宮に迎え入れた。群臣が帝位を勧めると、慕容熙は慕容元へ譲ろうとしたが断られて即位した。こうして天王を名乗り年号を光始とした。
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