息子との不和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 06:20 UTC 版)
「アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)」の記事における「息子との不和」の解説
ハンガリーの若王に戴冠されたベーラは、教皇ホノリウス3世の認可の元で、アンドラーシュが支持者に与えた王領の回収にとりかかろうとした。アンドラーシュはベーラの方針に反対し、ベーラをトランシルヴァニアに移してカールマーンにベーラの旧領を与えた。 1226年の半ばにアンドラーシュはガリツィアの君主に据えていた末子アンドラーシュの要請に応じて、軍隊を進める。ハンガリー軍はムスチスラフに敗れるが、最終的にムスチスラフはガリツィアの支配権をハンガリーに譲渡した。1228年、アンドラーシュの2人の息子は王領の回復を試み、ゲルトルードの暗殺に参加した貴族から土地を没収するようアンドラーシュを説得した。 1229年に末子のアンドラーシュはダニーロによってガリツィアを追放され、1230年からオーストリア公フリードリヒ2世がハンガリー西部への攻撃を開始する。
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