後醍醐天皇宸翰天長印信(ろう牋)とは? わかりやすく解説

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後醍醐天皇宸翰天長印信(ろう牋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 17:44 UTC 版)

後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』(ごだいごてんのうしんかんてんちょういんじんろうせん)は、南北朝時代後醍醐天皇が筆写し、その護持僧の文観房弘真が料紙装飾・奥書した、真言宗文書・書作品密教美術。通称は『天長印信』(てんちょういんじん)[1]国宝醍醐寺蔵。宸翰とは天皇の直筆文を指し、書作品としても優れたものが多いことから、「書の王者」とも呼ばれる。本作品は、それらに冠たる荘厳な書蹟と評される。特に、和様(日本独自の書風)に中国の禅林墨跡の書風を交えた宸翰様(しんかんよう)と呼ばれる書風の代表例である。また、蠟牋(文様が磨き出された紙)と金泥による料紙装飾も名高い。崩御2か月前の作のため史料としても重要。


注釈

  1. ^ 京博本では「或坐哉立」[24]とあるが、字形や意味から「或坐或立」に訂正した。
  2. ^ 内田啓一によるカナ転写:「オン・バザラ・ソキシマ・マカサトバ・ウン・ウン」[25]。「オーン、金剛微細(諸説あるが仏法の智慧を讃えた語)の摩訶薩(「偉大なる衆生」、菩薩の異称)よ、フーン、フーン」。
  3. ^ 内田啓一によるカナ転写:「アクビラウンケン・ウン・キリク・アク」[25]。「地・水・火・風・空、フーン、フリーヒ、アハ」。
  4. ^ 虚空に等しき者」(『大毘盧遮那成仏神変加持経』)。
  5. ^ なお、中国語の「蝋箋紙」とは、文字通り、引きで艶を出した紙のことであり、日本語の「蝋箋」とは意味が全く違う[35]
  6. ^ もっとも、内田啓一は、後醍醐天皇の仏教公事の全てが聖性・王権強化のためという訳ではなく、吉水神社奉納の両界種字曼荼羅(本作品と同じく文観との合作)については、他の曼荼羅の事例と照らし合わせる限り、純粋に心からの戦死者供養の目的で作ったのではないかとしている[45]
  7. ^ 内田啓一は、同様のことは、醍醐寺だけではなく、大覚寺統(南朝)の名前の由来の地である大覚寺の人事についても同じことが言えるであろう、と主張する[52]。大覚寺の門跡(総長)だった性円法親王が兄の後醍醐の吉野行きに従うと、尊氏はすぐさま寛尊法親王を送り込んで大覚寺の新たな門跡とした[52]。これも「尊氏は後醍醐を敵視して反旗を翻した」というような旧説的見解に従うと、尊氏が後醍醐の勢力基盤を取り押さえるための行動と考えてしまいがちである[52]。しかし、実は密教での付法関係を見ると寛尊は性円の弟子であり、その後継になることに不自然な点はない[52]。尊氏が行ったこの人事では、南朝と北朝のどちらが勝利しても、後醍醐の弟である性円の法流が生き残るという、後醍醐に配慮した構図とも解釈は可能なのである[52]。実際、文化12年(1815年)の文書ではあるが、「大覚寺安井両門跡由緒書」(『大覚寺文書』上巻所収)では尊氏による人事について「武家のはからい」という表現がなされている[52]。また、東寺長者の人事についても三宝院・醍醐寺の例と同じと考えられるとする[53]

出典

  1. ^ a b c d e f g 京都・醍醐寺―真言密教の宇宙― 2018, p. 260.
  2. ^ a b 宸翰:天皇の書 2012, ごあいさつ.
  3. ^ 小松 2006, p. 8.
  4. ^ 後醍醐天皇宸翰御置文〈/元弘三年八月廿四日〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  5. ^ 四天王寺縁起〈根本本/後醍醐天皇宸翰本〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  6. ^ a b 角井博 「宸翰様」 『改訂新版世界大百科事典』 平凡社、2007年。 
  7. ^ a b 小松茂美 「書:書道流派の発生」 『日本大百科全書』 小学館、1994年。 
  8. ^ 宸翰:天皇の書 2012, p. 53.
  9. ^ 宸翰:天皇の書 2012, pp. 53, 89, 105.
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  49. ^ a b c d 内田 2006, pp. 241-245.
  50. ^ a b c d 内田 2006, pp. 205.
  51. ^ a b 内田 2010, pp. 194–196.
  52. ^ a b c d e f 内田 2010, pp. 177–179.
  53. ^ 内田 2006, p. 206.


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後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』(ごだいごてんのうしんかんてんちょういんじんろうせん)は、南北朝時代後醍醐天皇が筆写し、その護持僧文観房弘真が料紙装飾・奥書した、真言宗文書・書作品・密教美術。通称は『天長印信』(てんちょういんじん)[1]国宝醍醐寺蔵。宸翰とは天皇の直筆文を指し、書作品としても優れたものが多いことから、「書の王者」とも呼ばれる。本作品は、それらに冠たる荘厳な書蹟と評される。特に、和様(日本独自の書風)に中国の禅林墨跡の書風を交えた宸翰様(しんかんよう)と呼ばれる書風の代表例である。また、蠟牋(文様が磨き出された紙)と金泥による料紙装飾も名高い。崩御2か月前の作のため史料としても重要。


注釈

  1. ^ 京博本では「或坐哉立」[24]とあるが、字形や意味から「或坐或立」に訂正した。
  2. ^ 内田啓一によるカナ転写:「オン・バザラ・ソキシマ・マカサトバ・ウン・ウン」[25]。「オーン、金剛微細(諸説あるが仏法の智慧を讃えた語)の摩訶薩(「偉大なる衆生」、菩薩の異称)よ、フーン、フーン」。
  3. ^ 内田啓一によるカナ転写:「アクビラウンケン・ウン・キリク・アク」[25]。「地・水・火・風・空、フーン、フリーヒ、アハ」。
  4. ^ 虚空に等しき者」(『大毘盧遮那成仏神変加持経』)。
  5. ^ なお、中国語の「蝋箋紙」とは、文字通り、引きで艶を出した紙のことであり、日本語の「蝋箋」とは意味が全く違う[35]
  6. ^ もっとも、内田啓一は、後醍醐天皇の仏教公事の全てが聖性・王権強化のためという訳ではなく、吉水神社奉納の両界種字曼荼羅(本作品と同じく文観との合作)については、他の曼荼羅の事例と照らし合わせる限り、純粋に心からの戦死者供養の目的で作ったのではないかとしている[45]
  7. ^ 内田啓一は、同様のことは、醍醐寺だけではなく、大覚寺統(南朝)の名前の由来の地である大覚寺の人事についても同じことが言えるであろう、と主張する[52]。大覚寺の門跡(総長)だった性円法親王が兄の後醍醐の吉野行きに従うと、尊氏はすぐさま寛尊法親王を送り込んで大覚寺の新たな門跡とした[52]。これも「尊氏は後醍醐を敵視して反旗を翻した」というような旧説的見解に従うと、尊氏が後醍醐の勢力基盤を取り押さえるための行動と考えてしまいがちである[52]。しかし、実は密教での付法関係を見ると寛尊は性円の弟子であり、その後継になることに不自然な点はない[52]。尊氏が行ったこの人事では、南朝と北朝のどちらが勝利しても、後醍醐の弟である性円の法流が生き残るという、後醍醐に配慮した構図とも解釈は可能なのである[52]。実際、文化12年(1815年)の文書ではあるが、「大覚寺安井両門跡由緒書」(『大覚寺文書』上巻所収)では尊氏による人事について「武家のはからい」という表現がなされている[52]。また、東寺長者の人事についても三宝院・醍醐寺の例と同じと考えられるとする[53]

出典

  1. ^ a b c d e f g 京都・醍醐寺―真言密教の宇宙― 2018, p. 260.
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  53. ^ 内田 2006, p. 206.


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