後藤昌文父子と交流
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「アルバート・シドニー・アシュミード・ジュニア」の記事における「後藤昌文父子と交流」の解説
日本においてハンセン病病院「起廃病院」を設立した後藤昌文は 1876年12月東京府病院の傭医師となった。この時期はアシュミードが帰米より前か後かは不明である。 アシュミードは後藤昌文の子の後藤昌直(ダミアン神父を治療して有名であった)からの情報を基に、日本のハンセン病史を記述している。アシュミードは後藤父子が1882年に出版した『難病自療』を1894年にアメリカの皮膚科泌尿科雑誌に紹介している。 この別冊が父子に送られ、それに対する昌文の日本語の礼状(1894,5,15付)で書状が存在する。アシュミードは魚食がハンセン病を引き起こすことに関する質問を昌文にしているが、その返事が(1894,7,8付)存在する。
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