康応の外寇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:32 UTC 版)
元寇終結後倭寇の活動が激しくなり、対馬は倭寇の根拠地の1つとなった。これは、ひとつには元寇に対する防衛や報復の意味があったといわれている。1366年(正平21年、貞治5年)、高麗王朝が倭寇と海寇の取締を宗氏に要請すると宗経茂はこれに応え、高麗との通交が始まるが、1389年(元中6年、康応元年)、慶尚道元帥朴葳に率いられた高麗軍が激化していた倭寇討伐のために対馬を襲撃した。朴は、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜となっていた多数の高麗人を救出したといわれる(康応の外寇)。倭寇の活動は高麗王朝滅亡の一因ともいわれており、李氏朝鮮王朝の祖である李成桂も倭寇討伐で功名をなした人物であった。
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