幼少期からピンギタンまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:27 UTC 版)
「カルティニ」の記事における「幼少期からピンギタンまで」の解説
1880年または1881年、カルティニの父はジュパラ県の知事に昇任した。そのためカルティニは県都ジュパラにある広大な県知事邸(カブパテン、kabupaten)に移り住んだ。その後、カルティニは結婚するまでの23年間をジュパラの県知事邸で過ごした。 1885年、カルティニはジャバラにあるヨーロッパ人小学校 (Europeesche Lagere School) に入学した。ヨーロッパ人小学校はオランダ人の教育のために開校されたものであり、ジャワ人の女子が入学するのは異例の出来事だった。小学校のころのカルティニは、午前中は学校に行き、午後はクルアーンの読誦を学んだり、オランダ人の夫人から裁縫を教わった。カルティニはアラビア語の意味も分からないままに丸暗記するだけのクルアーンの読誦を嫌っていたという。 1892年、カルティニが13歳のとき、彼女はジャワの貴族の習慣であり、初潮を迎えた女子が結婚するときまで館を出ることを禁じられるというピンギタン(婚前閉居、pingitan)を父から命じられた。カルティニは進学を希望したが、彼女の父はそれを退けた。父は彼女にピンギタンを強いたが、彼女がオランダ語の勉強を続けることはいとわなかった。カルティニは館に閉じ込められている間、手に入る限りのオランダ語の書物や雑誌を読み、ヨーロッパ人の友人たちとの文通を行った。カルティニが16歳のとき、兄であるスラストリが結婚して家を出た。これによって家にいるきょうだいのなかではカルティニが最年長となった。伝統的な慣習では、カルティニの弟や妹は最年長である彼女に対して敬語を用いるといった作法を取らなければならなかったが、カルティニはそうした作法を撤廃した。ピンギタンが始まって5年すると、カルティニの友人たちの説得を受け入れた彼女の父によってピンギタンは緩和され、徐々に外出を許可されるようになった。
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