山河氏義の出城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 14:45 UTC 版)
『鎌倉管領九代記』に先行する結城合戦の軍記類に「風間小太郎」の登場は確認できないが、山河(内)氏義の出城については、初期の『鎌倉持氏記』に、結城の遺蹟を継ぐことを約束されて籠城方から離反した旨の記事があり、また永享12年(1440年)10月15日付の仙波常陸介の注進状の写しに寄手の諸将の意見が列挙されている中に、先に籠城方から離反して幕府方についた「長沼」が籠城方の「山河」と離反の交渉をしていることや、離反した山河が長沼の陣に降り、在陣したことに言及がある。また巻末の首帳に「山河」の討取首も記されている。 山田邦明は、献策の長沼説と『結城系図 全』(=『鎌倉管領九代記』)の千葉介-岩松説について、『結城系図 全』を「全面的信頼のおける史料ではない」としながらも、どちらが仲介役となったかは問題が残る、としている。
※この「山河氏義の出城」の解説は、「風間小太郎」の解説の一部です。
「山河氏義の出城」を含む「風間小太郎」の記事については、「風間小太郎」の概要を参照ください。
- 山河氏義の出城のページへのリンク