小早川水軍の主力として活躍
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「乃美宗勝」の記事における「小早川水軍の主力として活躍」の解説
その後も隆景に従い、小早川水軍の主力として各地で活動する。天文24年(1555年)10月より始まる防長経略でも水軍を率いて活動し、毛利氏が九州に進出するとそれに従い、永禄4年(1561年)の門司城攻防戦では敵前に上陸し、大友方の勇将・伊美鑑昌(伊美弾正左衛門統正)と一騎討ちを演じ、負傷するも伊美鑑昌の首を取った。永禄8年(1565年)には所領に賀儀城を築城し、拠点とする。なおも筑前国博多の支配権奪取を目論む毛利元就は九州侵攻を継続し、その事実上の前哨戦となった毛利氏の伊予出兵でも主力として活躍。永禄12年(1569年)の立花山城攻防戦でも活躍する。 立花山城攻略後はその城代となり、筑前防衛の主将として行動した。しかし、大友義鎮の支援を受けた大内輝弘が長門国に侵入(大内輝弘の乱)、毛利領内は大混乱となり、毛利軍主力は大内輝弘征伐のために立花山城から撤退することとなった。わずかな兵とともに殿として立花山城に残った宗勝であったが、翌永禄13年(1570年)に開城し、戸次鑑連に城を明け渡した。開城の約束通り、毛利軍は堂々と安芸へ撤退し、戸次鑑連もそれを追撃することはなかった。同年、所領に勝運寺を建立。自身の菩提寺とした。
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