大明慈悲国とは? わかりやすく解説

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大明慈悲国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/26 03:50 UTC 版)

大明慈悲国
大明慈悲國

1915年 - 1916年
(旗)
公用語 台湾語客家語
宗教 斎教
首都 台南庁噍吧哖(現・玉井区)
皇帝
1915年 - 1915年 江燐
指導者
1915年 - 1916年余清芳(大明慈悲国奉旨平台征伐天下大元帥)
1915年 - 1916年江定(副元帥)
変遷
建国(西来庵事件 1915年7月6日
江燐の戦死1916年7月14日
解散(江定の投降)1916年4月16日
通貨台湾銀行券
時間帯UTC +8(DST: なし)
現在 中華民国

大明慈悲国(だいみんじひこく、: 大明慈悲國)は、1915年から1916年まで台湾に存在していた、軍事政権である。この政権は9ヵ月間存在し、西来庵事件の首謀者らによって樹立・運営された。

歴史

1915年、余清芳は台湾の人々の抗日意識を高めるため、「1916年には日本による支配力が低下し、中国によって解放される」と虚偽の情報を発表し、政権の樹立への協力者を集めていった[1]。 余清芳は「大明慈悲国奉旨平台征伐天下大元帥」という称号を自称し、1915年7月6日、西来庵事件と同時に「大明慈悲国」の建国を宣言した。 8月、余清芳は逮捕され、副元帥だった江定が指導者となった。西来庵事件の鎮圧後、共謀者の江定らは台湾南部の山中に逃走しゲリラ戦を続けたが、1916年4月16日、適切な処置と日本軍が今後自身に干渉しないことを条件に日本軍に投降し、取り調べのために一時的に保護された。結局、5月18日に日本側が一方的に条件を放棄したことで逮捕され、処刑された[2]

政府

大明慈悲国の建国前、西来庵で開催された会議で江定の息子である江燐を皇帝に、余清芳を大明慈悲国奉旨平台征伐天下大元帥に決定した。しかし、建国宣言直後の7月14日に江燐が戦死し、皇帝の座は解散まで空席となった。

参考文献

  1. ^ NUTN 國立臺南大學專任教師簡歷”. 2023年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月11日閲覧。
  2. ^ 臺灣記憶 Taiwan Memory--國家圖書館”. memory.ncl.edu.tw. 2019年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月6日閲覧。

関連項目




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