地名としての鮫河橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 02:18 UTC 版)
古く豊島郡山中庄、山中領などと称し、安土桃山時代には山中村と称していた。天正19年(1591年)徳川家康が江戸城に入ると、同年11月18日鷹場に指定された。 谷間の湿地帯のため開発が遅れたが、寛文4年(1664年)伊賀者組の屋敷地となり、一ツ木村と称した(この際従来の鮫河橋一帯は元鮫河橋と呼ばれる様になった)。元禄9年(1696年)町奉行支配となり、以下の町丁が成立した。 元鮫河橋表町 元鮫河橋仲町 - 旧字仲殿田 元鮫河橋南町 - 旧鮫河橋千日谷町 元鮫河橋北町 元鮫河橋八軒町 元鮫河橋陽光寺門前 - 江戸時代後期には空き地化 鮫河橋新伊賀町 - 後に鮫河橋谷町 明治初年の町名整理で以下のようになった。 元鮫河橋町 - 明治5年(1872年)元鮫河橋表町南部、元鮫河橋仲町、武家地、寺地が合併 元鮫河橋南町 - 明治2年(1869年)元鮫河橋八軒町、明治5年武家地、寺地を合併 鮫河橋谷町一丁目 - 明治5年(1872年)鮫河橋谷町南部、元鮫河橋北町、元鮫河橋陽光寺門前、武家地、寺地が合併して成立 鮫河橋谷町二丁目 - 明治5年(1872年)鮫河橋谷町北部、元鮫河橋表町北部、寺地が合併して成立 明治44年(1911年)5月1日これらの町名は簡略化され、鮫河橋の名は行政地名から消滅した。 江戸時代から、下谷万年町、芝新網町と並んで三大貧民窟と呼ばれた。しかし、地価の高騰や関東大震災以降の再開発により貧民窟はより郊外に移動して消滅した。
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