園田義男
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/22 02:46 UTC 版)
園田 義男(そのだ よしお、1945年8月30日 - 2018年1月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)。弟はモントリオール五輪金メダリストの園田勇。
注釈
- ^ 柳川高校に進学した兄が柔道であまり結果を残していなかったのに加え、当時の福岡電波高校は新興学校で、若い指導者の元でこれから新たな歴史を作っていくという環境が父親の判断材料となったようで、「兄が達成できなかった夢を成し遂げなさい」と言われたという[1]。
- ^ のち1993年の第18回大会で中村佳央・行成兄弟がこれに続いた。
- ^ 園田は田村亮子の3年間の指導を振り返り、1992年にバルセロナで開催の五輪の決勝戦でフランスのセシル・ノバックに僅差で敗れた事を、悔やまれる一戦として挙げていた[1]。この大会で田村は、当時最強の女子柔道家として“クイーン・オブ・ザ・ジュードー”の名をほしいままにしていたイギリスのカレン・ブリッグスを準決勝戦であっさり降すと、その試合後に園田は田村の金メダルを確信し、1年前の世界選手権大会でブリッグスに敗れて以来その対策を園田と共に研究してきた田村自身も雪辱を果たした安堵から、涙を流して喜んだ[1]。その気の緩みからか決勝戦ではノバックに敗れてしまい、園田は「指導者というのは常にベストの気持ちを選手に保たせながら試合に臨まなければならない」「試合前にビンタでもして、亮子の気迫を引き出しながら試合に導いてやるべきだった。この時の失敗が、その後の指導の糧となった」と反省しきりであった[1]。
- ^ 一日一日を全力で己に打ち勝てれば、自ずと試合での結果(勝利)も付いてくる、の意。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 柳川悠二 (2006年4月22日). “転機-あの試合、あの言葉 第46回 園田義男 -指導者として自信を深めた、田村との密度の濃い3年間-”. 近代柔道(2006年5月号)、120-123頁 (ベースボール・マガジン社)
- ^ 「新装版 柔道 体型別 技の大百科 第2巻」ベースボール・マガジン社 13頁 ISBN 978-4-583-10319-8
- ^ a b c d e f g h 泉麻生 (2018年4月1日). “故 園田義男九段のご逝去を悼んで”. 機関誌「柔道」(2018年4月号)、42-43頁 (財団法人講道館)
- ^ “ヤワラちゃんの恩師 校長に 福工大城東高 園田義男さん「しつけ大事に」”. 西日本新聞 (西日本新聞社). (2009年3月3日)
- ^ “恩師の父にささぐ白星 福岡工大城東男子3回戦進出 園田監督、教え胸に”. 西日本新聞 (西日本新聞社). (2018年7月3日)
- ^ “園田義男氏死去、72歳 谷亮子さん指導の柔道家”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2018年1月30日) 2018年1月30日閲覧。
[続きの解説]
固有名詞の分類
- 園田義男のページへのリンク