四心多久間四代見日流とは? わかりやすく解説

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四心多久間四代見日流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/12 16:31 UTC 版)

四心多久間四代見日流(ししんたくまよんだいけんにちりゅう)とは富山藩で伝えられた柔術流派。伝書では柔術ではなく和(やわら)としている。四心多久間流見日流和術などと略する。四心多久間見日四代流四心多久間見日流とも。本来は柔術を中心に剣術十手術、鎖術などを含んでいた。


  1. ^ 足立塚の碑文にによると足立正保は美濃の浪人であり、天和年間に前田正甫に請われて武芸指南のために来たとされる。 『富山市史』には「足立正保字は平陸、飛州高山の浪人なり、天和年間高山より富山に来りて見日流の柔術を教授す、元禄六年九月十五日其秘傳を渡邊繁正に授く、正保嘗て高山より一日の間に江戸へ赴きしことあり、其身の輕きこと無比にして、稲穂の立ちたる上を歩行せりと傳ふるものあり、及門の徒少からず、天保壬寅四月其碑を五時谷に設立す、」とある。
  2. ^ “月元”(ふえ)で一字の作り字、肮の訛字、喉(のどぶえ)の意。
  3. ^ 肮の訛字、喉(のどぶえ)の意、ここでは『のど』と読む。
  1. ^ a b c d 「四心多久間四代見日流和・前編」,『秘伝古流武術』1990年vol4, p.82
  2. ^ a b 北日本新聞「伝統の柔術後世に 呉羽丘陵多目的広場に足立塚を移設」2012年01月03日
  3. ^ 栃木県教育史編纂会 編『栃木県教育史 第三巻』栃木県連合教育会、1957年
  4. ^ 富山新聞「富山藩の武術後世に 多久間流継承・射水の青江さん 道場開き弟子育成 伝承者わずか2人「必ず脚光」(街を歩くと)」 2017年2月6日付朝刊


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