呉の最期とは? わかりやすく解説

呉の最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 07:35 UTC 版)

夫差」の記事における「呉の最期」の解説

その後も越による激し攻勢続き、とくに紀元前475年に呉の公子慶忌夫差に「王は行い改めないと、いずれは滅びでしょう」と諫言したが、聞き入れられず、公子慶忌領地戻りついでに向かった同年冬に、越が呉を討伐する慶忌は呉に戻り今こそ不忠者を除いて、越と結ぶべきです」と進言したところ、激怒した夫差大夫たちとはかって、ついに慶忌誅殺した(『春秋左氏伝』)。 紀元前473年、ついに首都姑蘇陥落した夫差付近にある姑蘇山に逃亡し大夫公孫雒(呉の公族?)を派遣して和睦を乞わせた。公孫雒は勾践の前で裸となり、「夫差は越王勾践さまに対して一度命を助けたのですから、あなたも一度夫差の命を助けていただけないでしょうか?」と夫差命乞いをした。だが、范蠡は「天から授かった機会逃したから今の呉があるのです。22年間の苦しみ忘れたのですか?」と激しく諌めた憐れ思った勾践は「ならば、夫差を甬東(現在の舟山諸島)の辺境流せ再起出来まい」と決めた。こうして公孫雒は引き返して夫差その旨伝えた。 だが、夫差は「私は年老いました。とても君主お仕えすることはできません」と言い、「子胥に合わせる顔が無い」と顔に布をかけると、自ら首を刎ねて死んだ勾践夫差死に憐れんで丁重に厚葬した。そして、呉の亡国元凶となった伯嚭処刑した。こうして呉は滅亡した日本の『新撰姓氏録』によると、松野連(まつののむらじ)は夫差の子孫を自称している。

※この「呉の最期」の解説は、「夫差」の解説の一部です。
「呉の最期」を含む「夫差」の記事については、「夫差」の概要を参照ください。

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